自分で自分を縛る@カウンセリング

今日もカウンセリングに通ってきた。通うといってもZoomなんだけど。昨今の新型コロナで密を避けて集まれなくなった。それでもZoomというネット会議に形を変えて、もう2年続けて参加している。人の変化というのはゆっくりだ。諦めずコツコツと積み上げる。

目次

一週間の振り返り

カウンセリングの最初に今週の振り返りをする。今週あった事をひとりひとり話してゆくんだ。日々の出来事、パートナーとの関わりの中で、子どもとの関わりの中で次の事を確認しあう。

  • 暴力を選択したシーンはあったか?
  • 非暴力を選択したか?

今までのカウンセリングのなかで、学びとって実践出来た事、学びとったハズなのに支配という暴力を選択してしまった事。それぞれの体験を告白しながら、参加者の視点を交えながら、振り返りと気づきを促してゆく。

参加者のすべての人は既婚者だ。各々「暴力」という課題を抱えているので、別居しながらもかろうじて婚姻関係にあるという人がいたり、カウンセリングで「暴力が改善されつつあり」再構築期にある参加者もいる。

独身で参加しているのはボクぐらいだ。離婚すればこのカウンセリングに来なくなる。元パートナーが悪いとすべてを相手のせいにして自分を納得させるからだ。

自身の暴力と向き合うのを辞めて次に進む事はダメだと思っている。同じ事の繰り返しだ。失敗から学ばなければ同じ事の繰り返しをするだけだ。

自身の暴力性としっかり向き合い、パートナーや子どもとの関係性を成長させようともがいている。もう叶わぬ事だと知っていても、取り組むのだ。そして、もがくなかで自分を知るのだ。

未だ苦しみのなか

他の既婚者と同様に、ボクももがいている。離婚して独身となっているのだが、元パートナーとの関係、子どもたちとの関係を改善したいと願ってはいる。(まぁそんなチャンスはもう無いのだろうが)

自分を許せず自分で自分に足かせをつけて2年が経過した。そして2年前と同じ場所で同じところをループし続けている。孤独に自分と向き合う日々が、まるで無限ループのようで出口が見えない。

ボクの振り返り

先週のカウンセリングで、ある参加者が別居中のパートナーと話し合いをもったと告白した人がいた。パートナーは彼に尋ねたらしい。

非暴力コミュニケーションカウンセリングに通って「楽になった?」

「楽になったよ。生きるのが楽になった」

一度、壊れてしまったパートナーと向き合い話をする事は勇気のいる行為だと思う。ただ彼はカウンセリングに通い続けて暴力を手放し(暴力を選択する価値観を手放し)頑張り続けた姿勢が彼女に伝わったようだ。話をする機会を彼女は承諾した。一歩進めたのだ。

そんな彼にボクは一筋の希望をもらいながら、彼が告白した「生きるのが楽になった」という事の意味を考えていた。

なにが楽になったんだろう?いったい彼はこのカウンセリングを受けて何を学び、そしてどう変わり、生きるのが楽になったのだろう?

ライカー副長
ライカー副長

ボクは未だに苦しいままだ。パートナーの事を想い出し、娘を想い出し、息子を想い出しては苦しんでいる。カウンセリングを受けてもいっこうに楽にならない。だから彼の「生きるのが楽になった」という告白が印象深かったのだ。

今週の振り返り。この一週間の振り返りを話をするのだが、みんなは状況に変化がある。ケンカになったり、上手くいけたり。しかしボクは独身なのでパートナーなんかいない。DVしようにも相手がいないし、関わりがなければ振り返りも出来ない。何も無い。あるのはただただ苦しいだけだ。

この一週間、彼の「楽になった」という言葉の意味についてずっと考えていた。だけど答えが出ない。だからボクは質問することにした。ボクの振り返りの時間で彼に質問することにした。

守秘義務があるので彼の事を詳しく書けないが、ボクは彼の事が好きだ。誠実さが伝わってくる。真面目な人だ。そして清潔で丁寧な生活をしている。洗濯をして、食事を作って、仕事も真面目に取り組んでいる。そんな彼がボクは好きだ。

そんな彼にボクは質問をした。「何が楽になったんですか?」と。彼はボクの質問に丁寧に答えてくれた。

自分で作り出した幻想に縛られている

今までパートナーにしてきたDVを認めたら楽になったのだそうだ。もう少し深堀するとDVを選択する根本的な自分の価値観を知り、その価値観がDVを選択させている。DVを選択させている価値観はすべて自分が作り出した幻想だったと話していた。

自分で自分を縛る自分ルール。それは自分の思い込みで作り上げた幻想。自分が作り出した幻想にがんじがらめにされて自分の自由を縛っていた。

彼がこだわり続けて守り続けていたもの。それは彼の思い込みだった。男として社会的に求められる役割や期待を真に受けて、こだわり続けてきた。

こだわってきた事を肩から降ろして、今まで社会や世間から押し付けられてきた自分の価値観を見直したんだそうだ。ひとりですべてしようとしていた事、ひとりで背負っていた責任やら責務や義務を置いて、他者に助けを求めるようにしたんだとか。自分の弱い部分も受け入れて生きる。強くなくてもいい。ありのままの自分を受け入れたということだった。

  • ~しなくてはいけない。
  • ~であるべきだ。

あらゆる「べき」は社会的に言われている「べき」であって、社会から世間から求められている、もしくは期待されるボクであり理想像だったりする。その理想像に「べき」という暗示で自分を縛り社会的なボク、世間的なボクになろうとする。そしてひたすら頑張る。その過程で相手をもコントロールしてしまう。自分の頭で考えて、「べき」という行動を他人を巻き込み実行しようとするからだ。結果的に相手を支配する事につながり精神的なDVになり、パートナーを縛り、関係を壊してゆく。関係性が壊れてゆくことに気がつかない。なぜなら正しい事をしていると信じているからだ。パートナーとの関係性をも無視して、自分ひとりで正しいと思った事(思わされている事なんだが)頑なに信じている。これが正しいのだと。疑う余地もない。

彼はすべて捨てた。DVをしている事実をすべて認め受け入れて、根本的な自分の価値観を探り当て、その価値観を置いた。社会から世間から自由になった。そういう事で「楽になった」と表現したのだ。

未だDVを受け入れられていない自分がいる

そしてボクは「楽になっていない」まだ苦しいままだ。彼が教えてくれた楽になった理由にヒントをもらうと、今もってボクはパートナーにしたDVを認めていないという事だ。認めていないから自分の根本にある価値観も捨てきれていない。だから葛藤が生じる。自分が悪いのか?パートナーが悪いのか?自分が正しいのか?パートナーが正しいのか?

こんな事を考えていても堂々巡りだ。葛藤は永遠に続く。今までとなんら変わりはない。

DV価値観からの脱却を目指して

でも原因がわかった。だから今からする事リストをつくる。そして丁寧に向き合う。

  • 過去と向き合い暴力を浮き彫りにする。
  • 暴力を認め、受け入れ、反省する。
  • 暴力に至った自分の考えや価値観を言語化する。
  • 社会的な自分ではなく、自分だけの自分に戻る。
  • パートナーと子どもたちとの向き合い方を再構築する。
  • そのうえで今出来る事に意識を向ける。
  • コントロール出来ない相手の心には意識を向けない。
  • 現実を受け入れながら自分の道を歩む。
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この記事を書いた人

福祉事業の経営をしてます。①小規模多機能のケアマネ②現場の介助③厨房で料理作り④体操教室など地域ボランティアをしています。
「やってみる」を軸に人生の幅を広げます。ウインドサーフィン・登山・カメラ・バイクはSV650・競馬・FX・株式投資・投資信託などなど。体験を記事にしています。

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