僕は大丈夫なんだろうか

「今日は、17時ぴったりで帰りたいのですが……」

と、髪をバッサリ切りすぎて、前髪がそろってしまった中山(仮名)さんが申し訳なさそうに言った。

「別にいいよ」

僕はヘルメットみたいな髪型になってしまった中山さんを見て、思わず吹き出した。それを見た中山さんも、どうして笑ったのか察したようで、

「バッサバッサ切られるから、嫌な予感したんですよ。また伸びてきますから」

と笑って言う。

笑いのある職場になり、昔みたいに職場で居心地が悪いということがなくなった。僕は自然体でいられる。昔からいるスタッフから見れば、僕は変わって話しやすくなったらしい。

◇

17時30分になり、誰もいないデイルームでカウンターの吊り下げランプだけを点灯させて、パソコンを叩いていた。するとデイルームのドアがガタガタと音を立てたと思ったら、息子が入ってきて、

「おーい。メシいこうぜ」

と言った。

「なんだ。今日は休みなのか」

息子のシフトを知らない僕は、勤務曜日がわからない。いつ家に帰って、何時に寝て、何時に出勤してるのか、息子の生活パターンを知らなかった。

「もうヤバいことなってる。職場。」

そうだった。息子は話し出すと、こちらの質問が聞こえなくなり、自分のことばかり話すのだ。息子の職場が荒れているのは、以前から話を聞いて知っていたし、もうあらかた状況も知っていたから、今更の話をされたところで僕は同じ反応を繰り返すしかなかった。

「そうか。そりゃたいへんだな」

と棒読みになっていただろう。そんなことよりどこに食べに行こうかというほうが、僕にとっては重要こと項だ。夢一喜も、鳥貴族も、そんな気分ではなかった。あっさりとしたものが食べたかったから、

「フグいくか。競輪の近くにふぐ政ってのがあるわ。ひれ酒を飲みたいから、運転してくれよ。」

と、我ながら良いアイデアだと思い、スマホを出して検索して営業時間を確認してから、メニューを見せて息子の反応を見ると

「おっけー。免許証とってくるわ」

スムーズに交渉成立となった。息子は魚が好きだったので、今日の晩御飯はてっちりで決まりだ。

目次

荒れている職場

フロントガラスに雨が打ち付けて、ワイパーがそれを拭っていくが、前の車のテールランプが、陽炎のようにぼんやりと赤く滲んでいる。

「あのフグの看板見える? 右側にさ、白い感じであるの」

「ああ、あれ?」

息子はとても目がいい。雨で滲むフロントガラス越しで、遠くの方に、づぼらやを真似したんではないかと思われるようなフグの看板が白く輝いている。

「あれがふぐ政だから、少し手前の方にパーキングがあるんだよ。店の前に停められるかわかんないので、そこまで行っちゃったらまたUターンして帰ってこなきゃいけないから、もう第二駐車場に一気に停めよう」

さすがに腹も減っていたし、小雨だったので、これなら第二駐車場から歩いてでも行けると踏んで、僕は初めから第二駐車場の方へ停めるように息子に言った。

「ここ?」

「そう、ここ」

カチッカチッとウインカーが鳴る。片側一車線の道は混雑していたこともあり、なかなか右折できない。少しの隙間を見つけ、息子が突っ込んでいく。雨で人が見えにくいので、歩道を渡るときに、

「人いないか注意してね」

思わずそう口に出ていた。息子はだいぶ車の運転がうまくなったとはいえ、まだ免許を取って二年経ったかどうかだ。ただ、日常的に運転する機会がないのもあり、どうしても僕は息子の運転に不安を覚えてしまう。

のれんをくぐると、女性店員が迎え入れてくれた。

「あ、予約してた山本さんですか」

と、僕たちを奥の座敷の方へ案内した。左側にカウンター越しの厨房があり、大きな水槽がブクブクブクブクと泡立っている。多くの個室の座敷にはあまり人がいないようで、どれもふすまが開いていた。一番奥の個室に通されて、息子は奥に入り、僕は手前に座る。小さな四人掛けの掘りごたつに、ポン酢とお箸とお手拭きと銀色の鍋があった。

「そちらのタッチパネルでご注文をどうぞ」

と言って女性店員は消えていく。タッチパネルをポチポチと操作すると、おすすめと書かれたコースがあったので、これを二人前頼み、フグの唐揚げを注文しようとしたところで、

「唐揚げと天ぷらってどう違うの?」

と息子が言うので、

「さあなぁ。唐揚げと天ぷらって、天つゆにつけて食べるかどうかじゃない。フグにそんな味はないだろうし。調理方法で味が化けるんじゃないか?」

実際、僕もわからない。てっちりとてっさが鍋と刺身だというぐらいの知識だ。そういえば、どこかの店で僕がてっさを注文したときに、当時小さかった娘が全部食べてしまった。反時計回りに箸ですくい上げて、

「え? そんな金持ち食いするの?」

と僕がびっくりすると、娘は僕の反応が面白かったのか、いたずらな顔をして勢いよくてっさを全部食べてしまった。結局、僕はそのときのてっさは口に入っていない。

ふとそんなことを思い出す自分に、僕は可笑しくなった。

「まあ、食べてみたらわかんじゃない?」

「じゃ、天ぷらと唐揚げ、二つとも注文しよう」

息子の決断も早い。何でも食べてみて、体験してみて、覚えていく。

◇

「店がめちゃくちゃでさ」

息子は座った途端に、注文が済んだら自分のペースで話し続ける。

「店長がニコニコしてんだけど」

「ニコニコしてるってどういうこと?」

店がめちゃくちゃになっているのに、店長が笑う理由ってなんだろうかと息子に尋ねると

「だから売り上げがいいから」

息子の職場は外国人がたくさん来る特殊な職場で、しかもリーズナブルな価格帯のアパレル関係なので、ハイブランドではなく、誰しもが気軽に店に入り、そしてポンポンと買い物かごへ商品を入れていける。特に外国人観光客にすれば、驚くほどの安さだ。それもあり、多くの客が訪れ、売り上げがどんどん上がっているようだった。

「忙しい時は、いろんなところでエラーが出てくるの。新人スタッフは全体を見れていないから、エラーだらけで売場がめちゃくちゃになっていくんだ。そこに、僕みたいな店を回せる人っていうのは限られてて、どんな状況にあっても、陣頭指揮に立ってスタッフに指示を飛ばして、むちゃくちゃになった現場を整えていくんだけど、店長にはこういう視点がまるでないんだよ」

「ああ、店長にね。まるでないのね」

と思ったが、それを聞いて少し自分の身を振り返ってみたときに、店長ってそんなもんじゃないのか、なんてこともふと頭によぎる。

「動ける人間がさ、動いたらいいじゃん。店を回せる人間が店を回したらいいじゃん、っていう考えだからさ。店長はちんぷんかんぷんなわけ。いちプレイヤー、いち店員になってる。僕を含めた仕ことできるバイトらは、もう店長を歯車にして、『こうしてください』『ああしてください』『今こうなってるからこうしてください』って指示を出すわけ。これどう思う?」

「うん、どう思うか……」

どう思うと言われたら、実際、僕が現場にいるときも、

「ちょっと主任、ここ手伝ってください」

と声をかけられる。

「はいはい、わかりました」

と言って僕は動く。

主任だからといって指示を出すのではなく、現場の人が動きやすいように、僕は現場のサポートに入るといった感じだったから、あまり指示は飛ばしていない。

僕の前に生ビールが運ばれて置かれ、それから息子の前にウーロン茶が置かれた。そして、白子の天ぷらが置かれ、

「好き嫌いがあるものですので、残される方もおられます。濃厚な味わいですから、一度召し上がってください」

と店員が言った。小皿に入った小さな白子天ぷらには、なにかタレがかかっていた。口に放り込むと、ねっとりとした食感があり、これは僕には合わなかった。息子を見ると、僕と同じ反応だったらしく、小鉢に白子の天ぷらは残されたままだった。

管理する人が管理される

「店長は管理者側の人間なのに、バイトに使われるという、意味がわからないことになっているんだよ」

息子の言葉に、気持ちがザワザワっとする。僕も同じようなものなんじゃないかなと思ったからだ。

「これ、やってくれませんか」をスタッフに仕ことを依頼されれば僕は断らない。訪問にも行くし、面倒な送迎にも行くし、トイレ掃除もする。厨房にも立つ。人が嫌がる仕ことを頼まれても、僕は断らなかった。現場のあらゆる仕ことの大半を僕はこなすことができるオールマイティーな経営者だ。これは使われることにはならないのかと疑問に思った。そんな僕のざわついた気持ちをよそに息子は話し続ける。

「将来、僕が工房を持ったときの練習だとパパは言ったけど、もうほんとその通りで、今いい勉強してると思う」

ふすまが開き、店員が出汁を持ってきて鍋に注ぎ、そして大きな一枚の昆布が鍋に入れられた。昆布で出汁を取るてっちり鍋の「てつ」は、鉄砲の「鉄」だそうだ。当たれば死ぬかららしい。それでも関西の冬の御馳走として流行り、関東の方ではあんこう鍋が流行ったそうだ。この話をデイサービスの「今日は何の日」でしていたから、この昆布を見て、歴史を感じたのだった。

「本当に店長の信頼がガタ落ちでさ。現場のバイトはいかに店長を歯車の一つとして使うか、もしくはこと務所の方へ引っ込んどいてもらって、現場は現場で回していくかを考え始めるんだ。そして、はじめは僕が陣頭指揮をしていたんだけど、僕の考えをチームに伝えて、僕が一歩引いてみんな平等に動けるチームをつくったんだけど、何を思ったのか副店長がやってきて、意味のわからん指示を出すもんだから、みんな本当に不満だらけで、この組織はダメだ、未来がない、ってやる気を失っていくんだよ」

息子はもう管理者側の視点で物ことを観察していた。息子にとってはシミュレーションゲームのようなものなのだろう。仕ことのできる人に仕ことが集中しないような仕組みを作り、息子の代わりに陣頭指揮をできるスタッフを育て、新人に声を掛けて居場所を作って、積極的にありがとうと言って人の心をつかんでいた。

陣頭指揮をしたいやつの自尊心もくすぐる術を覚えて、必要とあれば自らの指示出しの役割を捨てて、

「どれやったらいい? 次はこれするのかい?」

と指示を仰いだりしていた。

主体的に動かないスタッフと一緒に働く時は、わざとサボって店が回らなくなる状況を作り出して、そのスタッフが動かなければならない環境を作った。

「なにサボってんだよ。しっかりしろよ」

と怒られて、

「すみません。頑張ります」

と謝り、心の中でニヤリとしているわけだ。

息子の関心ことは、自分が一番でいることではなかった。チームづくりと運営だった。仕ことがどう効率的に回っていくのか、それを考えてチームをマネジメントすることに、息子は面白さを感じている。

「崩れるときっていうのは本当に早いね。1週間ごとに状況がどんどん悪くなっていく。まあ、たぶん3月までとりあえず働くってやつがいて、そいつらが辞めたら、たぶん多くの人は辞めるだろうね。店長は相変わらずニコニコして、それは売り上げがいいからなんだけども、その裏では信頼を失っていることにさえ気づいていない」

息子の話を聞けば聞くほど、僕はざわざわとしていた。今の店長と過去の僕が重なってくるから、嫌な気持ちになった。

「店長も薄々気づいてると思うけどね。現場が荒れていく様を見て、『あれ? ちょっとおかしいぞ。なんでみんなどんどんやる気を失っていくんだろう』って、たぶんそう思ってるよ」

すでに現場はギリギリのラインで走っていた。これ以上、バイト君たちがシフトに入りたがらないという状況が生まれて、アホらしくなり仮病をつかって早退し始めると、いよいよ崩壊という兆しが見えてくる。

「さらに、就業終わりのバイトを捕まえて、こと務所でいつ入れるんだと詰めていくから、さらに状況は悪循環なんだよね」

「そうか。それは悪循環だな」

まさに悪循環だった。バイトがシフトに入りたがらない。シフト表が埋まらない。早退するやつがいるので、しんどいと言ったバイトに、本当にしんどいのかと詰め始める。帰ろうと思ったバイトを引き止めて、シフト表を見せつけ、ここが埋まってないからこの日入れないかと迫る。

面白くないから働きたがらない。そして人が離れてゆく。そういうことだろう。

「本当に怖いのは、信頼を失うことなんだよな」

と息子はつぶやく。

「売り上げが上がっているからといって、順調じゃないんだよな。裏でどんどん崩れていってるから」

息子の言葉は真に迫っていた。

そして、すっかり僕の呼吸は浅くなってしまった。

組織には違う人間が必要

鍋はぐつぐつと煮立っていて、もうフグの身を入れてもいい頃合いだった。鍋奉行を息子に任せるとごっちゃ混ぜに入れてしまうから、僕は菜箸をとった。フグの身から入れていく。そして豆腐を入れる。白菜は芯から入れていき、煮立つ鍋の中を泳ぐ具材を眺めた。

「もう一つ学んだことがあったわ。組織には違う人間がいるね。副店長を見てて思ったんだけど、実質あの店舗をしっかりと固めているのは副店長なんだよね。あの人は真面目だわ。視野がすごく狭いけど、真面目でコツコツと仕ことをするんだから。だけど、やっぱりマンパワーだけでチームを見ているんだよねー」

語尾を伸ばして息子がしみじみと言う。話を聞いている限り、副店長はかなり体育会系の人だ。息子のことを呼び捨てで呼ぶ勢いがあって、シフトをしっかり詰めて、会社のマニュアルを遵守して、違うことは違うと言い切り、ダメなものはダメだとバイトを叱った。

叱られた方も、普段であればちゃんと現場に出ている副店長の言うことを聞くんだろうが、いかんせん不満がたまっているところで怒ったとて、真意が伝わらない。負の感情が渦巻いていて、言葉を放てば「なんで俺らが怒られなきゃいけないんだよ」という不満に触る。

「副店長がいるから、チームは崩壊を防げている」

と言う息子は副店長のことを冷静に評価していた。

「もし工房を持つことになったら、僕は新しいパターンを描いて、次々と新しいチャレンジをしていくつもりでいるんだけど、だって、一回作ったものを繰り返し作るなんて、死ぬほどつまらないと思わない? そんな退屈な作業は僕には無理。だから、僕の工房には、別の能力を持ってる人が必要なんだよな」

僕は感心しきってしまった。息子が今の職場の面接を受けると言ったとき、サービス業だから息子には無理だろう。すぐ飽きて次の職場に行くんだろうと思っていた。息子はモノづくりを得意とする。だから、どこかの工房でモノを作っている方がきっと長続きするんだろうと思っていたけども、見ことにその予想は良い意味で裏切られた。

将来の工房で必要な人材をしっかりここで学んでいる。そして、工房チームのイメージを固めている。それは、息子の頭の中だけではなく、実際に体を動かし、体感をもとにイメージを固められているわけだから、なかなか頼もしいじゃないかと思った。

息子にとって仕こと上のパートナーとなる人材か。コツコツ型で真面目で、ダメな時はダメと言えて、ちゃんと叱れて、チームのカタチを整えていける人材……。そう思ったときに、ふと娘の顔が思い浮かんだ。

ああ、いるじゃないか。

娘はどうしてるんだろう。自分のやりたいことを見つけて頑張っているんだろうか。懐かしく温かい質感がふっと蘇った。

てっちり鍋はすでに出来上がり、もう食べ頃になっていた。

それって僕なのでは?

フグの身を取り、ポン酢の入った器へ移す。熱々の豆腐を箸で取ろうと頑張ったが、どうも割れてしまうので、横着しちゃダメだなと、お玉でよそう。息子はてっちりを口に放り込み、ニコニコしている。フグの唐揚げも平らげて、天ぷらもうまいと舌鼓を打つ。エリンギの天ぷらだけ残されている。

「お前、これうまいんだぞ。食べてみろよ」

と言うが、そのまま残されたままだった。エリンギの天ぷらを取り、僕は口に入れてふと考えを巡らす。

店長は現場のことを知らない。

と息子は言ったが、僕に当てはめてみても、現場のことを詳しくは知らない。ウェルカムドリンク一つ取ってみても、誰がコーヒー、誰が紅茶で、誰がお茶なのか。コーヒーにいたってはミルク入りとか砂糖だけとか、利用者ごとに細かく分けられている。食ことのときなんかは、ご飯の量も利用者さんごとに決められているから、邪魔になるだろう僕はカウンターの中には入らない。

現場のことを知らないというのは、その店長と似たり寄ったりかもしれない。だけどちょっとニュアンスが違うところもある。

スタッフは「主任、お昼の送迎ですけど忘れてませんか?」と直接言うよりも、「そろそろ誰々さんのお迎えお願いします」と、僕が思い出せるように声をかけてくれる。僕が咳をしていると、看護師の中原(仮名)さんが、「主任さん、のど飴どうぞ。これとても効くんですよ」と差し出してくれたり、「主任、終わります」と、わざわざ僕のデスクまで足を運び、挨拶をして帰っていくような様を見ていると、現場任せの頼りない主任さんであっても、息子の職場の店長さんとは、違うようなところもある。

東側(仮名)さんはいろいろとアイデアを練り、売り上げと経費のバランスをしっかり取っていてくれたり。中山さんは、他のスタッフがここの職場をどう思っているかとか、僕の立てた意見に、「私はこう思います」と自分の意見をしっかり言ってくれたりと。

経営者として使われているのか、それとも信頼されて補完されているのか、少し考えてしまう。

人間力ってなんだ?

てっさも皿からすっかりなくなり、最後の締めの雑炊を作ることになった。

「これ二人前だけど、食べられるか?」

と僕が尋ねると、

「いけんじゃね?」

息子は簡単に答える。

満腹感からすれば、雑炊は少々でよかったような気もするが、息子がドバドバとご飯を鍋に入れてしまうものだから、まぁいいかと、息子が雑炊を作るのを眺めていた。

「店長がもう少し他のスタッフとコミュニケーションを取ってくれたらねー」

と卵を流し込みながら、息子が語尾を伸ばして言う。

「話を聞いてくれるだけで、気が収まることもあるんだけど。普段スタッフとのコミュニケーションがない店長だからさ。ねぎらいの言葉もなければ、ありがとうという言葉もなければ、雑談もない。これって、結局はたぶん人間力なんだよな」

息子は鍋に蓋をしたが、塩を入れ忘れているのを僕は見逃さなかった。けれども、まあいいか、と息子の話を聞く。人間力といっても、どういった力なのかさっぱりわからなかった。

スタッフから意見されると、『じゃあそれやってみようか。もしダメだったらやめればいい話だし。仕ことに正解はないからね』」

そう言って僕はひとまずスタッフの意見を受け入れる。

「ちょっと助けてください」

と現場からヘルプが飛んできたときは、

「はーい」

と返ことをして、デスクから立ち上がり現場の方へ行く。

僕は現場から求められたことは断らない。

「堺(仮名)さんって、姿勢がいいけど、なんかスポーツでもやってたのかい?」

「え、私、猫背なんですけど。スポーツといえば剣道をやってましたかね」

「剣道やってたのか。へえ」

そんな雑談をしたり、

「なんかジャッキー・チェンみたいだね。なんかカンフーとかしそうな雰囲気があるよね」

と堺さんの服装や佇まいを僕なりのイメージで表現すると、

「初めて主任に失礼なこと言われました」

と中山さんに喜んで話していたらしい。中山さんは僕に向かって、

「まるでダウンタウンの浜ちゃんに頭叩かれて、突っ込まれて喜んでいる芸人みたいに、なんか主任にいじられたことが嬉しかったみたいですよ」

と話してくれた。それを聞いた僕は、なんだか不思議な気持ちになり、もしかして俺って影響力があるのかな、なんてことをふと考えたりもした。

僕が少し難しい顔をして考えことをしていたときに、永井(仮名)さんが、「どうしたんですか、主任。そんな難しい顔をして。あ、もしかしてあの人のことを考えていたんですね」と冗談交じりに言う。僕は表情が緩み、「そうそう、あの人と会いたいなと考えていたんだよね」と笑う。

そう考えれば、息子の言う店長の人柄と僕の人柄は少し違うのかもしれない。

現場を知らないという共通点はあれど、スタッフとの関わり方には僕なりの個性があった。昔は他人に対してバリアを張っていたから、あまり心を開かなかったんだけど。そう考えれば、僕は変わったんだろうな。それがもしかしたら成長という話なのかもしれないな。

それだけでは危ない

「今の職場は、コミュニティーだけで成り立ってるんだよ。店長への信頼がない。評価されない。仕ことのできる人にしわ寄せが来る。教育するっていうマインドがない。だから人がどんどんやる気を失っていく」

鍋はぐつぐつと煮えてきて、

「もうそろそろ止めた方がいいんじゃないか」

と僕が言うと、息子はテーブルの下を覗き、ガスを止めた。

息子はよく言葉を端折るので、よくわからない。だからどういうことか、ほじくり出すように僕は質問する。

「コミュニティーだけで成り立っているってのは?」

「バイトのつながりは面白いよ。前も飲みに行ってきたしね。それで横のつながりだけは楽しいんだよ」

「楽しく働けるっていうのはサービス向上に反映するぞ」

僕は経験的にそれを学んでいたので、今の職場でも、今日一日を楽しく働こうという考えのもとに他のスタッフと関わりを持っていた。

「そうだよ。仲がいい人間関係があって、楽しく働こうっていうコミュニティーがあるのはとても大切なことなんだけど、そればっかりじゃダメなんだよね。そのコミュニティーがごそっと抜けたときにさ、その職場のサービスは劣化するわけだろ」

確かにそうだ。今が良くてもダメだ。この先ずっと店舗は続いていくんだから。誰がしようと、ある一定のサービスのクオリティはなくちゃいけない。

「なるほどな。となれば、やっぱり人間力だけでもダメだな」

「まあ、そういうことになるよね」

「パパは経営者で、リーダーが中山さんで、相談役に東側さんが入って、この三人のトライアングルで執行部。そしてその他のスタッフ。これをパパの求心力でまとめていても、スタッフのやる気をどう維持していくか、新人さんをどう教育していくか。ここをちゃんとシステムとして作り込んでいかなきゃ、パパがダウンしたときに、すべてがつぶれるわけか。」

「そういうこと」

そう言いながら、息子は雑炊をよそってくれて、僕の方へ差し出した。それを受け取った僕は、ネギをかけて一口食べようと思ったが、湯気がこんもり出ていたので、少し冷まさなくちゃ熱くて食べられないなと、テーブルに置く。

「そうか。じゃあパパの課題といえば、今の良い感じのチームを、誰がやっても大丈夫なようにシステムに取り入れていかなきゃいけないんだな。ということは、給料体系から見直して……」

僕は大丈夫なんだろうか

いやいや、また昔と同じ反応をしてるわ。

できてないところをこれからテコ入れするんではなくて、今できてることをしっかりと定着させるために、何が必要かを考えないと。ないものを作ろうとしちゃ、また明後日の方向へ突き進んでしまう。

まだ妻と一緒にデイサービスを回していた時は、「今のスタッフにありがとうと言って」と妻は僕にアドバイスをした。「ありがとうは魔法の言葉だよ」とも教えてくれた。

妻の言うことをそのまま実践すると、みるみるうちに面白いように効果が見て取れた。やる気を失っていたスタッフは、自主的に動き始めた。

「ごまかしちゃダメ。ミスしたらごめんなさいって言わないと、スタッフを叱っても説得力はないよ」

と妻は言った。

それから何かミスがあったときは、素直に「ごめん」と謝るようにした。

当時のスタッフは仕ことのできるスタッフではなかった。それでも、気持ちは温かいものを持っていたから、働く意欲が湧き上がれば、それなりに形になった。

サービスの質は、妻の助言で確実に上がった。

そして妻は一冊の本を差し出した。

「ひろし、これ買いなよ。ほら」

と本屋で差し出した書籍には、『結果を出すリーダーほど動かない』と書かれていた。







僕の仕ことのやり方を隣で見てきた妻が選んだ本だった。

僕はいつだって妻に助けてもらっていた。僕とは違う考えや見方で支えてくれていたんだ。

「ひろしは電子媒体よりも紙と鉛筆がいいよ」

と言って、渡されたノートとシャープペンシルで、本当に仕ことが整理された。人生のパートナーとしても最高な女性だった。たぶんもう妻のような女性は見つからない。

そろそろ食べ頃になった雑炊を口に放り込んだ。やっぱり塩味が足りなかった。

味気のない雑炊が舌に広がっていった。

Asylums For The Feeling

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この記事を書いた人

福祉事業の経営をしてます。①小規模多機能のケアマネ②現場の介助③厨房で料理作り④体操教室など地域ボランティアをしています。
「やってみる」を軸に人生の幅を広げます。ウインドサーフィン・登山・カメラ・バイクはSV650・競馬・FX・株式投資・投資信託などなど。体験を記事にしています。

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