デイルームのドアを開けて、まず初めにすることといったら、空気を入れ替える。
中に入ると、何か湿った籠った空気が漂っている気がして、息苦しさを覚える。外の冷たい空気を循環させて、デイルームの流れを良くする。中国の風水か何かで聞いたことだが、気の巡りを良くしないと運気は上がらないらしい。
ドアを開け、そのまま庭の方へ向かう。ガラス戸を開けると、草木の香りが風にのってふわりと通るのを感じる。メダカの水槽に猫防止にしている蓋をぱっと取ってやると、驚いたメダカたちは四方八方に散っていく。
今日も元気そうだ。
スタッフが出勤してきて、途端にデイルームの雰囲気が色づき始めた。
「昨日、大丈夫だった?」
と立川(仮名)さんが中山(仮名)さんに話しかけた。
「息子の息子が危なかった」
と、いつもの下品な下ネタから入る。
「どういう意味?」
「だんじりの終い太鼓で、裸になってフリチンになって、だんじりにしがみついてチンコをブラブラさせる伝統があるねん。」
どんな伝統だよと僕は黙って聞いている。
「息子がそわそわと小屋の中に入っていくもんだから、もしかしてと思ったら、小屋の中から息子が真っ裸で現れてな」
もう立川さんは笑い転げている。堺(仮名)さんもタオルを畳みながらクスクスと笑う。中原(仮名)さんはマイペースに自分の準備をしていた。
「一緒に観てたママ友が、『拝ませてもらいます』って言うから、私はちょっと隠れたの。母親の見てる前でフリチンになって踊るっていうのは嫌だろうから」
勢いよく話す中山さんは、朝の清々しい空気を一気に台無しにする。
「主任はダイエット頑張ってる。コナミ行ってんでしょ」
と立川さんが話題を変える。
「行ってるよ。だけど、一向に痩せないけどね」
「痩せなくてもいいのよ。体を引き締めたら。中山さんの体知ってる? 一回触らせてもらったら、めっちゃ引き締まってるよ」
女の職場だから、たぶん自然な言葉なんだろうけども、僕が男だということを忘れているらしい。
「そんなことしたらセクハラじゃないか。何言ってんだよ」
立川さんはキャハハハハッと笑い出して、さらにデイルームはにぎやかになる。
今日の朝の出勤は4人だ。僕を入れて5人になる。この人不足の中で、気の合う人が集まったの奇跡だろう。なんて贅沢な職場だろうか。
人は読めない
今日は祝日で、町は少し静かだ。車の窓を開けていると、チュンチュンとスズメが鳴くのが聞こえた。祝日はどれだけの人が休んでいるんだろうと驚くほどだ。
僕はずっとサービス業で働いていたから、祝日なんてほとんど関係がなかった。特に今みたいにデイサービスを運営し、福祉事業を動かしていると、小さい会社だからこそ、僕の働きは重要になる。サボっていては士気が上がらないし、不満がたまればチームは一気に廃れてしまうからだ。
だから率先して働き、周りのスタッフとも薄くてもいいので関係を築いておく。さらに今日みたいな日は、祝日に出勤してもらっているから「ありがとう」ということで、ケーキなどを買って帰る。
なかなかの出費になる、これが。それでも不満は出る。人の心なんてものはコントロールできないし、なるようにしかならない。
思ってもみない事が起り得るから、なるようになれ。なった時には諦め、次を見据えろと思うのだ。
これからの出逢い
まだ日は暑いが、首筋を涼しい風が吹き抜けると、ほっと体が緩んでいく。月曜日の祝日はあまり車もなく、気がつくとウトウトと意識が宙に浮いてしまう。
窓を全開にして、深呼吸をしてみる。やっぱり、鳥の鳴き声がどこからか聞こえてくる。バイクが右側を勢いよく走っていき、前の信号で止まった。この天気でバイクを運転したら気持ちが良いだろう。
ああ、気持ちがいい。
そうだ。そういえば、今日は厨房の人の面接じゃないか。5時に約束したけど、正直あまり期待はしていない。良い人なら、めっけもんだ。
今こうやって仲良く、互いに助け合いながら働いているので、その輪を崩してはほしくないな。話しやすい人で、ちゃんと自分の仕事をしっかりする人で・・・。
いや、思うことはひとつ。本当に話せる人が一番いい。
立場
2010年、平成22年にNHKで放映されていた『龍馬伝』が、Amazonプライムで配信されていた。
平成22年といえば、だんじり祭りで拾伍人組の幹事長をした年だった。あれから男社会の中にどっぷりはまり、僕も感化されて、ジェンダー社会に飲み込まれていくきっかけになった年だった。
「あのな、仲間を信じろよ。同級生、信じらなあかんからな。わかったな。」
水野くんは、ギラギラした目で僕をにらんで言った。
「いや、それにしたっさ。あの山口は暴力的な男だよ。自分の思い通りにいかなかったら、暴力で解決するじゃないか。あれを信じろって?」
僕も村田も、山口にはへきへきしていた。話をしたところで、感情を暴力に変えて怒り狂うから、話にならないんだ。そして暴力で支配する快感に酔いしれているようにも見えた。
「それでも、俺らが執行部になった年には、ちゃんと山口は戻ってくるから。その状況を作っとけ」
僕は水野くんの言ってることが、さっぱりわからなかった。そして僕らの年になり、山口は組長、僕は幹事長、村田は帳元になった。それぞれが役割をこなす一年が始まった。
すると山口は、水野くんが言った通り、人が変わったように「ありがとう」と言えるようになった。
今思えば、立場が人を変えるのだ。
自分が組長の年は、みんなに助けてもらわないといけない。だから山口は「ありがとう、ありがとう」と言う。でも、前年は組長が榎谷さんだったので、組長を助けるために精力的に動いたから、暴力で組長にたてつく奴らを蹴散らしていたわけだ。
すべては、立場なのだ。
リーダー論
『龍馬伝』の第何話だろうか。武市半平太が土佐に送還され、彼を助け出すために龍馬が奔走しているシーンだ。とてもいい場面の途中で、僕の肌には鳥肌が立ち、時間を忘れてテレビに食いついて観ていた。
ドアがトントントンと鳴り、
「もうそんな時間か……」
と我に返る。
息子が帰ってきた。
淡路島のお土産と一緒に渡そうと、豚肉と牛肉と鶏肉、それに厚揚げを買ってきていた。息子はそれを取りに来たのだ。
ドアを開けると、真っ暗な中に息子が立っていた。
食材とお土産を受け取る前に、息子は話し始めた。話題は職場のことだ。話したいことが山ほどあるんだろう。
「下に行こうぜ」
そう言って、息子は階段を降りていく。僕はもうハイボールを三缶ぐらい飲んでいたので、いい感じに出来上がっていたし、食材を渡したらすぐ寝るつもりだった。息子の予想外の行動に少し戸惑ったが、まあいい。付き合うことにした。
僕は土産と食材、そして息子が帰る頃だろうと逆算して炊いた白飯をタッパーに入れ、デイルームの方へ向かった。ドアを開けると、息子はハイボールを一本、僕に手渡してくれた。
「はい、これ好きでしょ」
コンビニで買ってきてくれたハイボールだった。
「お、気が利くじゃん」
そう言うと、
「ここで食べるわ」
と息子は食材を受け取った。
「どうやって調理したらいい?」
と言うので、僕は肉を焼ける大きさのフライパンを取り出し、IHコンロをカウンターの上に置き、皿を出して、あとは息子に任せることにした。焼肉は、自分で焼いて食べる方がうまいに決まっている。
「もっと早く教えてくれよ。パパが、『自分で指揮を執るんじゃなくて、チームの指揮を執らせるやつを見つけて、任せてしまえ』って言ってたじゃん。あれ、だいたいわかってきたよ」
と息子が言う。
フライパンでは牛肉がジュウジュウと焼かれている。肉の焼ける匂いがデイルームに広がっていく。
「『これはもうお前にだけ言うけど、ここのチームを指揮できる能力があるから、今から教える。この通りにやってみてよ』って言ったんだよね。そして、できたら『あ、いい感じじゃん』って褒めて、それを繰り返していると、本当に指揮を執り出して。僕はその後ろの方で、彼の動きを見てたんだよ。こういうのは先に言ってくれよな」
じわじわと思い出す。
そういうことは言ったけど、教えるタイミングが早かったなと僕は反省していた。いろいろ言われたところで、混乱するだろうと思ったからだ。だけど、息子は僕の話をちゃんと覚えていて、人に任せるということを覚えたようだ。
つまり息子は、僕の真似をしたいわけだ。
今、僕のチームは中山(仮名)さん、東側(仮名)さんが現場を回している。そして僕は、細かい現場のことは何にもわからない。
「あとは頼んだよ」
そんな感じで、僕は座ってパソコンで仕事をしている。そして必要な時に現場へ出ていく。多分、息子はこれをやりたいんだ。
「そうなんだ。それ、できたんだね。すごいじゃん」
まさか、本当にやってのけるとは思わなかった。
僕のリーダーの形と、息子のリーダーの形はまったく違う。息子は「俺についてこい」という感じで、自分がぐいぐい引っ張っていくタイプ。そんなリーダーが息子だ。僕はそれとは真逆で、みんなに助けられてリーダーができる、というようなタイプだったから、まったくパターンが違う。
それなのに、僕のやり方を真似しようとして、実際にできたんだから、すごいもんだなと思った。使われる側ではなく、しっかりと人を動かしていたので、将来への準備は着々と進んでいそうだ。
なかなか頼もしい。
伝え続ける
「あのさ、地元の市議会議員の親父さんが、病気で亡くなった時があったんだよ」
息子は黙って聞いている。僕が何を言い出すのか、注意深く観察しているようだ。
「市議会議員の葬儀だったから、たくさんの献花が並んでるわけだよね。それはもう、葬儀場には入りきらないぐらいの数だったよ。本当に市議会議員というのは、メンツや立場だけで生きている人種だから、葬儀も大きく派手にやってたよ。次の世代、つまり世襲の票につなげていくような葬儀だったわけだよ」
僕はその政治家の奥さんにお世話になっていたから、献花なり弔電なりをしなくちゃいけない立場だったわけだ。
「立場が問題なんだ。個人的に世話になっていたから、相手のメンツのために形にしないと、後から何を言われるかわからない。だからママに相談したんだよ。『お花をさ、出さなくちゃいけないだろうか?』って」
職場の話とはまったく違う話題だったから、どう聞いていいのかわからない様子だったが、ママの話が出てくると、息子の目が変わった。
「その時、ママは何て言ったかというと、『松元(仮名)さんの献花はある?』って聞くわけだ。これも立場の問題で、パパは松元さんより上に立てない立場なんだよ。上に立ってしまったら、松元さんのメンツをつぶしてしまうからね。だからママはそれを気遣って、まずその名前を出したわけだ」
僕は電話をしながら、ずらっと並んでいる献花を見ていると、松元さんは連名で出していた。友達と三人で連名にしている。松元さんも横のつながりに配慮したんだろう。自分だけが目立つような出し方ではなかった。
「そういう話をママにしたんだよね。するとママは、『松元さんが連名で出しているんなら、あなたの名前は出さない方がいい。だから献花は出さない方がいい』って」
息子は黙って聞いている。
「誰との関係を優先するのか、という視点なんだろうね。政治家とはあまり親しい間柄でもない。でも、身近にいる松元さんとの関係は、僕にとってすごく大切になるだろうと予想したんだろう。だから献花は出すな、というのがママの意見なのさ」
僕は呼吸を整えて、
「こういう話がママにはできるんだよ。だからパパは頼りにしてたんだよ。お前のママはめっちゃ頼りになるんだ」
と息子に話すと、息子は目を見開いて、
「そうだよね。そういうところあるよね」
と言った。
その反応が、なんとも息子の心が躍っているように見えた。
