朝6時からトイレ誘導をして、食事を作って、クスリの準備をして、洗い物、そして朝のデイサービスの準備を整えていた。2時間たっぷり時間があったのだけど、もう8時を迎えようとしていて、スタッフが出勤してくる時間が迫っている。
昨夜の台風もあり、一晩中窓に風が打ち付けて「バンッ」と音が響いたので、ロクに寝ていなかった。頭がスッキリしないので、今日はすぐに仕事を切り上げようと思っていた。
だけど、昼からの地域住民が参加する体操教室の準備だったり、台風で屋内に避難させていた鉢植えを庭に戻す作業だったり、なんだかんだやる事が多くて、なかなか帰れないでいた。
「主任、玄関フロアに雨が吹き込んでびちゃびちゃですよ。モップもって拭きますから手伝って下さい。」
と、中山(仮名)がモップを担いでやってきた。
「人遣いが荒くないか?俺、夜勤明けだぜ・・・」
「朝一発目のお客さんが来るまでに、玄関の拭き掃除終わらせたいから、お願いします。」
中山さんは、まっすぐ僕の目を見てモップを僕に渡してきた。やって下さいねっという意志の宿った瞳だった。
やっと仕事があらかた終わり、荷物をまとめてデイルームを出たのが10:00だった。夜勤明けの日は休みをもらっているから、台風過ぎた淡路島ぐらいなら雨は降らないだろう。今から出発して淡路島一周のソロツーリングに行けたけど、脳が休ませろと訴えていた。
2時間ぐらい寝てから、後の事を考えるか・・・
僕は休みの計画を後回しにして、シャワーを浴びてから、布団にもぐり込んだ。
2時間も寝れば元気になるだろう・・・。
肩たたき券
僕は関西国際空港にいた。
スーツケースをゴロゴロと転がして長い通路を歩いていた。
時間があったので食事をすることにした。通路の両側に、そば屋やら、お好み焼き屋があり、どこも窮屈そうだった。しばらく行くとガラス張りの店があり、他の店よりも何倍もの広さがみてとれた。「ここにしよう」っと店内に入れば、やわらかなBGMが流れ、旋律がハッキリしない和音が不規則なリズムを刻んでいる。
真っ赤なソファーに白いテーブルが添えつけられて、広いフロアにまばらな客が食事をしている。セルフで注文して、返却口に返すレストランだった。僕は注文口まで行き、ピザとコーラーを手に取り席に着いた。

トロトロのモッツァレラチーズが溢れそうなほどのピザに、バジルとトマトが埋もれていた。一枚を取ると糸を引きながら伸びていった。熱々のピザを食べようとしたときに、やっぱりというか、お決まりというか、コーラーがこぼれて、それから横に置いていたスーツケースに落ちたとたんに、中の荷物が辺りにまき散らされた。
夢のなかで、食事をしたためしがない・・・
下着やタオルや、ペンやスマホの充電器や、いろんなものがまき散らされた中に、お金もパサッと広がり、その中にとても大切にしていたものも含まれていた。
周りの人がお金に群がり拾うなか、いろんな物が無くなっていき、僕の心はひどく軋んだ。無表情な人々は、僕のモノをハイエナのように漁っていた。
お札に紛れて、ソレがあった。
「お金なんてやるから、それはダメだ。返せ。」と僕は浅黒い肌の、目のきつい中年に言い、その手にもつものを奪い返した。
「他はすべてもっていっていい。だけど、これだけはダメだ。」と、僕は強く言い表情のない者を払い退けた。
僕はその大切なものを失わなかった事に、ひとまずの安堵を覚えて、深く息を吐いた。
手の中に握られたそれは、父の日に娘からもらった「肩たたき券」だ。
「まだ使っていないんだよ。これは。」と僕はつぶやいた。
夢だと途中から気がついてはいたが、夢だとしてもこれは失う事は出来なかった。
八木さんに憑依するもの
外でなにやら揉めている声が聞こえた。うっすらと夢から覚めて意識が混濁した中で、ハッキリと声が聞こえてきた。
「ここの管理人いる?ちょっとあなた管理人知らないの?」
なにか緊張した大きな声の正体は、隣のマンションで住んでいる八木(仮名)さんだとわかった。
夜勤明けで眠ったのを思い出して、時計を見ると寝てから4時間が経っていた。ちょっと寝るつもりが、もう昼の14:00だった。台風という状況もあり、気が休まらなかった夜勤だったのだと、この時になって気がついた。
「ちょっと私、1階に降りるわ。管理人に言わなきゃいけない事があるのよ。」
いつもなら部屋でテレビを観ているハズの八木さんが、切羽詰まったような声を張り上げている。
八木さんが混乱しているようだから、はやく行って気を静めてやらないと面倒な事になりそうだった。急いでズボンを履き、靴下は省いて急いで隣のマンションまで行った。
すでに八木さんはエレベーターで1階に降りてきていて、やっぱり混乱していた。僕と目が合い、知っている顔がいた事に安堵の表情を一瞬だけ浮かべて、すぐに緊張の表情に戻った。台風で気圧が乱高下したからだろうか?理由をつければいろいろあったが、それよりも大切な事があるという事を、僕はもう知っていた。
「息子がいなくなったのよ。事故に巻き込まれたんじゃないかしら。どうしよう。どうしたらいい。」
今の八木さんは息子を心配する母親だった。その気持ちは良くわかったが、八木さんの息子は、とうに生き方知れずだったし、たぶん生きてはいるのだろうが、八木さんにも長い間、会いに来ていない状況だった。
こんな親子関係があるだろうか・・・とも思う。
八木さんは「寂しい」と常々言っていた。八木さんの今までの人生のなかで、息子にとって良かれと思ってしてきた事が、思惑と違った結果になったのかもしれない。親子関係が音を立てて軋む事があるのを僕は知っている。
たぶん、歯車はどこかで噛んでしまったのだろう。動かなくなってしまった時を、八木さんは生きている、のだと思う。
「私、ごはんも食べてないし、息子もいなくなっちゃったし、事故に巻き込まれているじゃなかと思って」
八木さんは顔を真っ赤にして興奮していて、歩行器につかまり僕の顔を見て必死で訴えた。靴も履かずに1階に降りてきたところを見ると、よほど不安に突き動かされたようだった。
八木さんに何が起きたのかを瞬時に把握した僕は、八木さんに向かって言った。
「あのね。息子さんは、今は仕事中なんだよ。わかる?だってまだ14:00なんだから。」
と、八木さんの腕に光る腕時計を指さして言うと、八木さんは「え。そうなの。あぁ、そうだったんだ。それならそうと言ってくれないと心配するじゃない。」とやっと安堵の表情になった。
「だからさ、とにかく部屋に戻ろう。靴も履いていないじゃない。今から僕がごはんを作るから、少し食べて落ち着こうか。」
八木さんをエレベーターに乗せて、居室に戻りベットに座らせた。
そして息子さんは仕事に行っている事や、娘さんは東京に行っていること、そして何も心配しなくても大丈夫だという事を、つらつらと話しながら、僕がIHコンロでウインナーを炒めて、とろけるチーズを乗せたトーストを焼いて、目玉焼きを焼き、ポタージュスープを作って机の上に出した。
「美味しそうね。あなた料理上手なのねー。」
八木さんはすっかり落ち着きを取り戻し、美味しそうにウインナーから食べた。
「大丈夫?落ち着いた?」
僕は八木さんに向かって言ったが、八木さんは食べるのに夢中だった。よほどお腹が空いていたんだろう。だんだんと表情は和らいでいった。
ベットの上に置きっぱなしの昼の配食弁当が、そのままになっていた。僕の想像どおりお腹が減って余裕を失ったわけだ。そこからイライラしだして、そのイライラがいるハズのない息子の不在というカタチで、混乱に結び付いたわけだ。
人は余裕を失えば、壊れてゆく。かつての僕がそうだった。時間的余裕を失い、精神的余裕を失い、そのイライラが圧となり、妻に負担をかけていた。
大切な人を失わないと、僕は気がつかないものなのだろう。
こんな僕で、妻に申し訳なく思っている。
まだ僕は孤独でも大丈夫だが、八木を見ていて独り暮らしは高齢者には堪えるのだろうと思った。顔見知りの僕が、温かい料理を作り、それを食べている。お腹が満足すれば、不安も和らいでいった。
もう大丈夫だろう、っと僕は八木さんに手を振りドアを閉めた。
だけど、僕が八木さんの歳になれば、きっと孤独と不安にやられてゆくのだろう。
僕は正気でいられるのだろうか・・・
中山さんのマウス
八木さんの混乱を鎮めれたのは、八木さんにとって僕は安心できる存在だったからだ、と思っている。
この7年間で、孤立と不安が恐怖を呼ぶことを、そして恐怖が人に憑依して育ち、人は豹変するという構造を、僕は知ってしまった。
つくづく、人はひとりで生きていけないのだと、皮肉にも独りを好む僕が感じてしまった。
八木さんにも同じような事が起こっていそうだった。だから僕は人の繋がりと、他人とって僕がどんな存在であるのかという事を意識するようになった。
妻にとって僕はどんな存在でいたいのか?っと、何度も自問自答する日々が今もなお続いている。
八木さんの対応を終えて15:30だった。水曜日の休みを無駄には使えないと、着替えてから僕はデイルームへ向かった。もう利用者さんは帰りスタッフが記録を書いていた。
そこへ中山さんが送迎から帰ってきた。
「今日は何か変わった事はなかった?」っと尋ねたが、中山さんの返事はなかった。
聞こえなかったのだろうか?
僕はそのまま庭に向かってメダカの鉢を眺めた。2匹のメダカが泳いでいて、朝に確認したときにはお腹に卵がどっさりついていたのだけど、キレイになくなってスマートになっている。
どこに卵があるのかと注意深く鉢を見ると、水草にしっかりと卵がついていた。
僕はそれをそっと取り出して、となりのバケツに移した。これで安全にふ化できるハズだ、と思う。あまり自信がないが。
振り返ると、中山さんが「主任、私のパソコンのマウス買ってきてくれましたか?」と批難に交じった声で言った。
「あ。ごめん。すっかり忘れていたよ。今日買いにいくわ。」
私の頼み事はいつも後まわしなのね、私言う事はぜんぜん耳に入っていないのね、と言われいているような気になって、僕は慌てて返答したのだが、同時に濁った空気が息苦しく感じて「あぁ、機嫌が悪いんだな。」と、なんとなく感じた自分に驚いた。
「割り箸も無いですよといいましたけど、これも注文してくれましたか?」
やっぱり声の質感や、身体が湧き出る威圧感があった。これか。これが人から出ている質感だなっと、僕の感性が生活レベルまで降りてきているのが、なんとなく嬉しかった。
中山さんの質感が見えたのだと思う。僕の感性がしっかり働いていた。
僕はバイクを飛ばし、泉南イオンのJhoshinで中山さんに依頼されたパソコンのマウスを購入した。いつもなら中山さんが退社するとき、「お疲れ様です。戸締りしておきました。」とか顔文字付きでLINEが入るのだけど、今日は無いところを見ると機嫌が悪いのだ。
それがとても可笑しかった。中山さんの機嫌が悪いのは、別に感心がなかったが、それが感じる事が出来るようになった自分の成長を感じた。
ちなみにマウスを購入したが、一番の安物を買った。
ちょっと笑ってしまった。
息子からの遅い返答
バイクを飛ばして帰り道だった。
昨日の台風の影響なのか、ここらへんでは珍しく潮風に磯の香りが鼻腔を刺激した。
空はすっかり陽は沈み、宇宙が大気を飲み込もうとしている。海と空の境界線には、キラキラと光る街明かりが灯っていた。
19:51
LINEの通知がなり、息子からだった。
「なんかみんなお土産でアニメtがメインだから普通の服売れない」っと入っていた。
休憩時間で、急いで書いたような文だった。だぶん、いろんな人からLINEが入っていて、次から次へと返信していたのだろう。息子のそんな姿が想像できて可笑しかった。
「オープン初日は無双できたのかい?」
これが僕が息子に送ったLINEだった。昨日の19:43に送った僕のLINEに、丸一日寝かせて、今日の19:51に返信してきている。24時間の時差だった。それがまた可笑しかった。
息子は何が好きなのか?嫌いのなのか?そして僕は知るだけで踏み込まない。息子が感じたものを面白がっている。
息子はどうやら妻の感性を受け継いでいる。妻は因果や事実でなく、温度や質感、リズムや間、呼吸や湿度、そんな感じで世界を見ている。そうか、そういう事か・・・と僕はようやく、妻が見ていた世界の入口に立ったのかもしれない。
娘は、世間のなかでエリートコースだと思っていたが、娘こそ自分の世界が横に広いのではなく、縦に深く深くある。僕が見えるところなんて氷山の一角で、実はその下に蜂の巣のように何層も重なって娘の世界が続いている。
僕は自然が好きだ。だから風を感じる。ヘルメットのフェイスガードを開けて、めいっぱい風を感じるのが好きなんだと思う。自然を感じる感性は、僕にも備わっていた。
台風が過ぎ去った空としては、雲の流れが速くて、風の道が時折強くなる。びゅーっと唸れば、静かになったり、不安定な空模様が続いていたが、磯の香りが癒しを運んでくれたから、深く深く呼吸して生きている実感が沸き立った。
さぁ、帰ろう。
帰ってからエッセイを書こう。
