ナスの煮浸し
薄暗い8畳の部屋にいる。部屋は2部屋で、襖でまじきられている部屋で、僕はこの暗さが気持ち居心地が悪かった。蛍光灯が今にも切れそうな感じでジーっとないっていた。そのうちパチ、パチと鳴り出して消えたり、点いたりしそうだ。そして蛾とかが蛍光灯の灯りに引き寄せられて、パタパタと飛んでは蛍光灯に当たる。
部屋の空気には、妻の香りが漂っていた。ほんのりとした香水なんだろうか、石鹸なのだろうか、香りの正体はわからないが、懐かしい香りが漂っていた。
「なんで別れなきゃいけないんだい?今まででもうまくいっているじゃないか。」
テーブルには食べ終わった食器が並べてあり、ナスに煮浸しが食べ残されていた。空の缶ビールが2本と、飲みかけのものが。すっかりぬるくなってしまっている。
妻はテーブルの向こう側で正座をしている。手を膝に置き、その拳はきゅっと握られていた。
「私たちは、このまま一緒にいても、ダメになってしまうのよ。」
別れ話をしているというのに、妻は妙に落ち着いていて、その言葉はまだ温かいように聞こえた。
「いったい何が不満だっていうんだい?理由を聞かせてくれよ。」
僕は途方もない出口が見えないトンネルの中にいるような気がしていた。仕事をして、お金を稼いで、家には不自由はしないぐらい入れていた。そこになんの不満があるというのか、僕にはさっぱりと心当たりがない。
「私が寂しくしているの、わかる?そのお料理だってどんな想いで作っているのか、あなたにわかる?」
妻はまっすぐに僕の目を見て言った。
「美味しいさ。とても美味しかったよ。いつも思うよ。君の料理は美味しいって。当たり前じゃないか。」
「ちがう。私が言っているのはそういう事じゃないの。」
僕にはさっぱりとわからなかった。妻は手を伸ばせば届くほどのところに座ってはいたが、その間には大きな壁があるようだった。乾いた空気が流れている。
「別れましょう。」
妻は再び僕に乾いた言葉を言った。彼女の意志は、微動だに動きそうにもなかった。
ずっしりと重く、重く・・・
響き合った音色
僕は布団のなかで、目を覚ました。どうしようもないくらい気持ちが沈んでいた。
外は薄暗く、朝日がのぼりつつあった。時計を見れば5:00だった。最近はこんな時間に目が覚める。だから特に苦も無く朝は余裕をもって起きれたが、そんな事より、僕は今、見ていた夢の方が気になった。
あのナスの煮付けは、夢の中の妻が作ってくれた料理だった。僕は「美味しいよ。美味しいにきまっているじゃないか。」と言ったが、言えば言うほど味が薄まっていった。
夢のなかの妻の質感は、妙に生々しく湿り気があって、香りもあった。そこに確かに妻が在った。僕は失いたくなかったから、傍に引き留めておきたかったから、必死で繋ぎとめようと言葉を投げたが、何の手ごたえもなく消えてゆくのだった。
「このままじゃダメになってしまうの。」と言っていた。あの言葉だけが妙にリアルだった。ダメになってしまう夫婦ではなくて、妻でもなくて、彼女の感じる音だったのかもしれないなと思う。
キレイな音色で響いていたのに、次第に響きを失ってしまったのだろう。響かなくなってしまった、感じる事が出来なくなってしまった、それは沈む太陽を止められないように、どうしようもないものだった。のだろう、僕にはその感覚がわからない。その響く音色がどんな音なのか、聞こえないんだ。
いや、ちがうな。もしかして、出逢った頃は僕も音色を感じてしたのかもしれない。2つの和音だったり、3つの和音だったりしながら、青い空の下の風を響いていたのだと思う。
あのナスの煮浸しは、確かにテーブルの上にあったが、味がどうのじゃなく、彼女が作った料理としてそこに在るわけだった。
「彼女が作った料理には、どんなものを感じる?」
だんだん日が昇り、外が明るくなってきて、ふと鏡台に目をやると、かつて彼女がつかっていたもので、あの鏡台からタバコが出てきた事があった。
僕は「タバコは、子どもに悪いんだよ。」と怒ったが、なぜタバコを吸うのかという背景まで、想像を膨らませはしなかった。
音色が聞こえなくなったというのは、そういうことだったんだろうなと、分かった途端に、再び音色が聞こえるようになる。不思議なようで、矛盾していてそうで、その音色は薄まったナスの煮浸しの味さえも、蘇らせてくれた。
