ガスコンロのスイッチを押して、カチカチと鳴った後に、ボッっと青い火が燃え上がった。フライパンを乗せて油を入れる。静かに温度が上がってゆく。食パンをオーブントースターに入れて4分ダイヤルを回し、コーヒーメーカーのスイッチを入れて、すぐにポコポコと湯気が立ち鼻腔にコーヒーのこおばしい香りが立ち込める。
冷蔵庫からベーコンとたまごを出し、フライパンにほんのり煙がたち、十分に熱々になったところにベーコンを置くと、予想どおりジューーと気持ちの良い肉の焼ける音と香りが立ち、そこへ卵を乗せて、水を入れて騒がしくなったフライパンに蓋をする。
すべてが同時に、それぞれの出来上がりが交差するように、段取り通りに進むのを、僕は気持ち良くリズムを刻み、朝の時間を迎えていた。
朝ごはんをキレイに仕上げて、夜勤明けの、疲れた後の朝ごはんが出来上がった。
いつもの火曜日の夜勤を終えて、スタッフの出勤と入れ替わるように、僕は休みに入ってゆく。東側スタッフが気を利かせて水曜日の休みにしてくれたおかげで、僕は、夜勤後に仕事から解放される。
自由とはこういうことかと細胞が沸き立つようだった。
夜勤後の休みだけども、運よく頭はクリアで睡魔もなかった。風呂に入り疲れた体を癒して、湯に浸かるだけで、毛穴に適温の湯が染みわたり、鳥肌がたつぐらい入浴の心地よい刺激が、体中をかけめぐる。
体の底から「はぁぁ」と息を吐きながら、意識が遠のく。仕事から解放された安堵感が緊張を解きほぐしてゆく。しばらく湯の中で何も考えず、呼吸だけをしていた。
頭皮もサラサラになり、清潔感が立ち上がり、入浴した後の、けだるさが睡魔を連れてこなかったので、今日は元気があるなと、ここで初めて自覚した。
それならば、今からどこかに行くのもありか・・・
そう思い、僕はSV650を車庫から出して、カメラを持ち神戸に向かうことにした。運動不足なのもあり、写活しながら街歩きをしようと思った。
ただひたすらシャッターを切る
神戸ハーバーランドまで行けば、無料のバイク駐車場があった。ここに停めれば、あとは自由時間だ。駐車料金を気にせず、僕は気の向くまま神戸の街を徘徊できる。
ウォーキングをしながら、僕はありとあらゆるものを被写体にしてシャッターを切った。
「あのさ、自分の軸があって、自分の感性を信じ切って、ひたすらカッコいいというものを作るんだ。」と息子が言って、さらに続けた。
「万人受けするようなものじゃなくて、わかってもらえる人だけに響けばいいわけ。だから他人の評価なんか気にしちゃダメだなんだよ。コアなファンを少なくてもいいから作る。」
息子は服作りでも、自分のつくるパターン、自分の世界観で成り立たせようとしてた。それがどんなにコアなものであっても、それが自分の道だといわんばかりに。
それを聞いていた僕は、息子の言葉を思い出して、誰に評価されるわけでもなく、自分が良いと思った構図を、自分の感性を信じてシャッターを切った。




想い出
「もっと歩くよ。スピードを出して!」と妻が言った。
僕たちは久米田池をウォーキングしていた。別れる1年ほど前の、2018年8月頃の話だ。
僕はヘトヘトになっていたが、妻は額に汗をかきながら「ここから大股になって、はい、30歩!!」と僕を急かした。
妻はとてもパワフルで元気だった。僕をけしかけてニコニコと笑い、僕たちは久米田池を反時計回りでウォーキングしていた。あの頃の妻から立ち上がる質感は、透明感があり、汗は弾けていたし、ペットボトルの水は歩みを止めないと飲めなかった。それを見て僕はケタケタと笑った。「そんな不器用なことある?」と言うと「うるさい。飲めないものは、飲めないんだ。」と妻もわらって答えた。
今は、そんなことをするほど身体が元気じゃない。無理をしない程度の歩行を心掛けたし、背骨に負担がかからない姿勢を心掛けた。そして今の妻はあの頃の妻でもないのだろう。いつの間にか知らない人になってしまったのが、僕には不思議でならなかった。
125㎜の中望遠レンズをつけていたので、視線を遠くに向けて、構図を探してシャッターを切った。それはそれで楽しかったし、気晴らしになったけど、時折思い出される妻との、トンボ池での想い出が、知らず知らずのうちに、ボーっと考え事の時間にさせていた。
「なぜ。あれだけ仲が良かったのに、1年後には状況が様変わりしたんだろう?」
とんぼ池でウォーキングしていた1年後に、怖い怖いと僕は言われるようになっていて、彼女にとって僕は鬼になっていた。愛する者を傷つける存在になってしまっていた。
僕はどうしたら彼女にとって安心できる人でいられるだろう?ずっと答えを探していた。
◇
そんな事を考えていた時に、中山(仮名)スタッフからLINEが入り、現実に戻された。
「お疲れ様です。もう終わります。息子さん、さっき来られましたよ。今日はお休みですと伝えておきました。」
いつも中山さんが仕事を終える時は、必ずLINEをくれる。
「そうか、息子が来たのか」
しばらく息子と会っていなかったので、仕事の事も気になっていたので、僕は息子に連絡を取った。
水曜日の鳥貴族
「なんかさー。仕事場でさ、不思議な事になっているんだよね」と息子はケタケタと笑っていた。
「どういうことだよ」と生ビールを飲みながら、息子が笑って話すので、さぞかし変な状況が生まれてるんだろうなと想像して尋ねた。
「突然、学校も行ってない、服が作れて、英語は話せるバイト君が、外人相手に服を売ってる状況で、いろいろ不思議な事になってる。」
「なるほど」と僕は納得した。
バイトの大半は大学生だった。だからある程度のレールどおりに進学している人ばかりで、レールからはみ出した経歴の息子が入ってきた。しかもその不思議な経歴の英語を話すバイト君は、自ら外人に話しかけて、服の提案までして、レジまで誘導してひとり単価を上げている。周りからは「なんだあいつ?」と思われているようだった。
イメージできた不思議な状況を、僕は確かめるように息子に話しをした。
「みんな、マニュアルどおりに動くから、ひたすら散らかった服を畳みなおすって作業で、そこにお前が外人に話しかけて接客する行動を見せるから、不思議がられているということか?」
「そうそう。めっちゃ不思議な目で見られてる。」と、焼き鳥を頬張りながら、再びケタケタと笑っていた。
「面白い事してんなぁ。俺はてっきり、そろそろ仕事に飽きてきて、もうつまらねぇ、っと愚痴りだす頃合いだと思っていたけどな。」
見事に予想が外れた事に、僕は内心安堵した。息子の反応が意外にも、接客に前向きだったので、しばらくは安心できそうだと胸をなでおろす。
人の質感
「この前さ、バックヤードで1時間ほど監禁されたんだよね。」と息子は笑って話した。いつも息子はどんな状況でも、深刻に考えこまずに、笑い飛ばして話す。これは、息子の強みだなと思っている。
「どういうことよ。それ。監禁されるって。」
「めっちゃ説教受けたんだよ。副店長に。」
息子には、教育係として真面目に仕事をする25歳の女性副店長がついていた。八尾(仮名)さんと言った。
「なんで教えた事が出来ないの?」八尾さんはイライラしながら言った。息子はそこで八尾さんから立ち上る不安のオーラを感性で感じ取っている。
「いやー そのー ちょっといろいろ言われても、ボーっとしちゃってー」息子はいつだって真剣なのだけど、みるからに真剣みに欠ける具体性のない返答をする。
「だから何で覚えられないのよ!」と八尾さんは次第に語気を強めた。
「英語と日本語って使う脳が違うんですよ。だから英語で話している時に、急に日本語でいろいろ言われても、入ってこないんですよ。」と息子は八尾さんに理解を求めたけど、「言い訳しないで!」と強く言われた。
これは英語脳に特有の現象だったけど、英語を話せない人に説明したところで、わかってもらえるハズがなかった。
息子はこの時の八尾さんを「なんか、不安が立ち上がる人だな。なんで、こんなに不安定なんだろう。」という質感を感じたらしい。息子は、八尾さんに対して苦手意識をもってしまった。
視座
「不安のある人とかさ、依存する人とかさ、僕は苦手なんだよ。だからあの副店長と合わないわ。」
僕は黙って聞いていたが、このまま八尾さんとの関係を諦めてしまうのは、どうなんだろうと思った。だけど現場で見ていない僕には、八尾さんの質感がわからなかったし、息子の反応を一方的に否定することも出来ない。どうしたもんかと思案した挙句に、もう少し状況を知りたくなった。
「その、八尾さんだっけ?彼女の欲しいものって、お前の感性でわかったりするの?」
「うーん。店長に認められたいとか、頼られたいとか・・・」
「なるほどなぁ。つまり、それって承認欲求があるということか?」と翻訳してみたら、それはビンゴだったらしく、「そうそう。それだよ。承認欲求が強いの。だから店長に認められたいと思ってる。」
マニュアルを暗記を求める人で、25歳女性で、息子の教育係になっていて、教育がすすまなくてイライラしている人で、店長に認められたと思う人かぁ・・・。
店長に「あの子を指導して、頼んだよ。」と頼まれて、店長に任せられた仕事がうまくいかなくて不安になっている女性か。なるほど、生真面目な女性なんだろうなと思った。
「八尾さんってさ、真面目な人だと思うのよ。」と言うと、「そうそう。めっちゃ真面目な人。」だというので、想像した人物像どおりだったので、さらに深掘りして息子に話した。
「真面目な人だから、教育係としての仕事をまっとうしようと思ってる。だからお前にちゃんと教えなきゃと力を入れてるのかもしれない。そして接客マニュアルを完璧にお前に覚えてもらうのが、彼女のミッションで、それをやり遂げて、店長に認められたいと思ているとしたら」と言ったところで、
「そうそう。そういうこと。」と息子は手を叩いて、言語化された今の状況を理解して、息子は話し出した。
「でもさぁ、接客マニュアルって、一文字違うだけなんだよ。例えば、こちらでございます。と、こちらです。にどんな違いがあるというのよ?それよりも、服を一着売るほうが大切じゃない?こっちは実績だしてんだから、そんな細かい事が必要ですか?と言ったら、めっちゃ怒られた。」と息子が真顔で言うので、僕は手を叩いて笑い転げた。
「めっちゃ笑ってるじゃん・・・」と息子は呆れていたが、僕は息子らしさ全快で、組織に馴染めないのは、こういうところなんだろうなと、少しだけ息子の将来に不安を持った。
息子は実利を大切にする。だから八尾さんの立場で見ている事を、忖度なく無益だと言い放つ怖さ知らずなところに、僕は不安を感じた。
「接客マニュアルってのは必要なのよ。どんな人が現場にいたって、サービスの標準化を目指すわけだから。八尾さんの立場からすれば、マンパワーよりも、チームをまとめる事が仕事だったりするから、マニュアル順守を求めるのは、当たり前なんじゃないかな。」
息子は黙って聞いていたが、僕は続けた。
「他のバイト君で客に話しかける店員っている?ソコで服を何着も買っているけど、今まで店員に話しかけらえた事なんかないわ。」
僕は、マニュアルどおりに動くバイト君が標準的な仕事で、それに意味がある?と疑問をもつ息子に、今の状況だけを伝えようと思った。後は息子が判断することだから。
「マニュアル通りに動く人は、マニュアル以上の事はしないし、単にしわくちゃになった服を畳みなおし、客に聞かれた事に応えるぐらいじゃないかな。」
「確かに」と息子は短く答えた。
「八尾さんも真面目に接客マニュアルを教えるという仕事をこなしているだけで、店の売り上げがどうとか、個性を伸ばして、スタッフのモチベーションを上げようなんて事は考えていないと思う。店長に任された仕事をしているだけで、ただそれだけの事だと思うよ。」
余裕をもつ
息子は、さっきまで食べていた焼き鳥を皿において、僕の話を聞いていた。
僕は座りなおして、息子に呼吸と整えて、リズムを変えて話した。
「これはパパの予想だけども、八尾さんは、お前の事を仕事のできない人だと店長に報告しているかもしれない。で、それを聞いた店長はお前を観察する。八尾さんの報告が真実か、自分の目で確かめるからだよ。」
さらにリズムを変えて、声を低くして、息子に見て続けた。息子はこういった人の所作を感性で捉える。今から僕が事の核心に切り込むのが、意図的にリズムを変える事で、知らせる事ができた。
「この時に必要な大切な視点は、点で見るな、線で見ろだ。状況は今なお変わっていってるし、一時の評価がすべてじゃないということ。まわりに巻き込まれるようなお前じゃないのは、パパは知ってる。だから普段どおりやればいい。」
パパに以前、ズボンを探してくれたように、目の前のお客さんに似合う提案をすればいいし、値段は安いけど、品質は落としていませんよという説明をすればいいし、物価の安い日本で3着ぐらい買っておいたほうが得ですよと教えてあげたり、店の売り上げを優先するという軸を守ればいいと、僕は息子に話しをした。
「もうひとつ大切な話をするからな」と念を押して、僕は息子に話し続けた。
「八尾さんを立てろよ。八尾さんのプライドをへし折るような真似をすると、彼女の感情に触ってしまうからな。感情がいったん沸き立ってしまうと、人はどんな正しい事を伝えても、聞く耳はもってくれない。つまり人は理屈では動かないんだよ。」
息子はしっかり僕の目を見てる。
実力勝負の息子からしたら、周りとどう歩調を合わせるのか、悩ましいところだろう。
うまくいけばいいけれど。
