薄暗い部屋だった。古びた旅館に宿をとっていた。フスマで分けられた部屋には、一組の4人家族が食事をとっていた。その家族は、話すでもなく、表情もなく、ただひたすらに出された食事を食べていた。
蛍光灯がその家族の周りだけを照らし、あたりは暗く、むしゃむしゃと食べる音だけ、その家族の存在として確かにそこにある。臭いも、体温も、リズムもなく、ただそこで食事をとっている。
その家族と襖を隔てた別室で、僕は荷物を置いた。襖を隔ててはいたが、その襖は居酒屋などで置いてある小さな襖だったので、立てば向こうが見える。ほとんど一緒の空間にいるようなもので、まさに旅館で相部屋だった。
その家族の存在はありつつも、僕はさして意識を向けることなく、荷物から水着を出して旅館備え付けのプールに行く準備をする。
一緒に来た僕のツレも荷物から水着を出して準備していた。

ノイズだらけの沸騰
「準備出来た?」と尋ねると、「行こか」と静かにいう彼は、もう準備万端だった。
部屋を出ると、赤いじゅうたんが真っすぐに伸びている。長い廊下の両側は、各客室のドアが並んでおり、少し進むと増築したのか少し階段になった箇所もあった。
あたりは薄暗く窓もない。両端が客室なので廊下には窓がなかった。そのため蛍光灯だけが灯り、薄暗い廊下は、湿っぽい赤いじゅうたんを、濃い色のくすんだ血の色のように見せた。
後ろを歩く僕のツレの顔さえもはっきり見えなかった。とにかく暗くて廊下は真っすぐに伸びていた。階段は手すり部分が、太い角ばった木で出来ていて、キレイに磨き上げられ艶があるようだった。
次第に、僕はこれが夢であることに気がついたのだったが、その旅館は妙に懐かしさを携えており、赤い血の色のじゅうたんも、階段の手すりの質感も、居心地の良さがあった。
僕の後ろを歩いている彼は誰なのかわからなかったが、人を警戒する質の僕からすれば、妙に親しい間柄のようで、少しも警戒を払わなかったし、それでいて安心感もあった。
次第に明るくなる廊下は、プールに続いていて、青色のウォータースライダーのパイプ状の道が、うねうねと入り乱れて鎮座していた。
入道雲がもくもくと立ち上がり、空は青と白のコントラストがハッキリと分かれていて、人の賑わいがあり、子どもがキャッキャと愉しむ声だったり、水の流れる音だったり、キャーとかワーとか言う男女の声が響いていた。
そしてワシャワシャとセミが鳴き、世界はノイズだらけで沸騰していた。

ウォータースライダー
ウォータースライダーの構造物の下に行くと、この巨大な構造物が青い空と白い入道雲を隠してしまった。日陰の中を僕と彼はウォータースライダーの入口を探して歩いた。
「あの階段じゃないか?」と僕は指をさした。
その指の方向には、白い階段があり、その階段はペンキが剥げてところどころ茶色の錆びが目立っていた。階段を登ると、足の裏が妙にザラザラとして、鉄の感触が伝わってきた。硬そうな階段は指でもぶつけてしまえば、鈍い痛みが走りそうでこわごわと足を運び、階段を登っていった。
最上階に着くと風がびゅーと吹き、一気に涼しくなった。大きなテント状の天井が太陽の光を受けて、あたりはオレンジ色に包まれていた。勢いよく噴き出す水がごうごうと流れをつくり、ウォータースライダーの穴の中へと流れてゆく。
「はい。並んで下さい。順番にいきますから。」と係員が言い、人々は列に並んでいた。その列に並び次第にワクワクして心拍数が上がってくる。次々と青い穴に人が吸い込まれて流されてゆく。穴の中からキャーとか、ワーとかの叫び声が聞こえてきて、その穴の先は興奮と冒険が待っているだろうと、僕たちはさらに順番が回ってくるのを心待ちにした。
そして僕たちの番になり、先に彼が通されウォータースライダーの水の中に入って、係員の説明を受けていた。彼の背中に激しく水しぶきがあたり、その水しぶきに押し出されるように穴の中に消えていった。
次は僕の番だった。しかし係員が僕の前に手を出して、「もう終わりです。」と言った。
「ちょっとまてよ。そりゃないだろう。ここまで並んできたんだから。」と僕は食い下がったが、係員は顔色ひとつ変えることなく、「もう時間です。営業終了します。」と言った。後に並んでいる人はすべていなくなり、そこには僕と係員の二人だけになった。
「ちょっとまてって。階段下で営業終了の札でも立てとけよ。この階段を登って、そして列に並んで待った挙句に、目の前で終わりですと言われて、納得できるかよ。」
僕はなぜ係員が「終わりです」なんて言うのか不思議でならなかった。理不尽極まりない発言が信じられなかった。しばらく係員と押し問答になり、不満顔の係員が「今回だけですよ。」と通してくれることになった。
僕は当たり前だろ、と思いながらも、それでもこの係員の対応の理不尽さが頭から離れなかった。
ウォータースライダーの中へ足を入れて、水が勢いよく足に当たる。乾いた身体に水しぶきがバシバシと跳ねて、火照った体に冷たさが走った。目にも入る水しぶきは、これからのウォータースライダーの興奮を予感させて心拍数をさらに上げてゆくハズだったが、僕はどうしてもこの係員の「もう終わりです」の真意はどこにあるのか?といった疑問でいっぱりになり、心躍らせるよりか、不満だけがぐるぐると頭の中を回っていた。
ウォータースライダーの穴は、少し先まで見えていて、右へ曲がり降りてゆくのだったが、穴の中へと流れてゆく水の音は遠のき、風もなくなり、そして身を押し出して、ウォータースライダーの穴の中へと流され、クネクネと何度も曲がるたびに、不満と疑問だけが大きくなっていった。
楽しいハズの、興奮するハズのそれは、なんの高揚もなく、右へ左へと曲がりくねった流れる景色だけになり、バシャーンとプールの中へ落ちてゆくと、そこには誰もいなくなっていた。
営業が終了したのか、静かに水はたたずみ、ちょろちょろとウォータースライダーの出口から流れ出ていた。セミの声も聞こえず、子どもの声も聞こえず、ただただ静かだった。
僕のツレもいなくなってしまった。
そして係員への不満も疑問もなくなっていた。
5:00am
僕は次第に夢から覚めて「あぁ、やっぱり夢だったか」と明るくなった部屋の中にいた。
時計の針は5:00amを指していて、また電池がなくなったかと思った。身体はゆったりとしていて、妙な安心感があったから、心身ともに十分すぎるほどの睡眠だったろうと感じていた。だから5:00なわけがないと思ったのだったが、実際は5:00だったし、時計の電池は切れておらず、時間は正確に刻まれていた。
あの部屋の家族は、食べ終わったんだろうか?とか、僕のツレは誰だったんだろうか?とか、旅館の廊下を歩く懐かしさとか、ウォータースライダーの出来事ひとつひとつを思い出して、深く呼吸をしていた。
あの感覚を再現しようと、しばらく意識を泳がせていて、時計の針が断片的に飛んでいった。
途切れ途切れの意識の果ては、とても心地が良かった。
寝室
僕が寝ている寝室には、かつては川の字で家族が寝ていた。
僕が一番端っこで、その横に娘が寝ており、その横に息子が寝て、一番向こうに妻が寝ていた。日曜日にゴロゴロと寝ているわけだったが、一番最初に子どもたちが起きて、プリキュアだか、デカレンジャーだか、朝のアニメを観ている。
寝室には妻と僕だけになり、妻の寝顔は朝日に照らされて、輪郭がほんのりぼやけていた。僕が妻の身体に触れると、柔らかく、そして熱を帯びていた。すぐには起きれない妻だったので、僕は妻の腰をさすると「あー いいわ。そこ。」と言った。
僕は状態を起こして、妻の腰から肩に向けて、両手で擦り上げて、特に親指には力が入らぬように気をつけた。背骨に圧力をかけてはいけないと注意を払って。
そうやって妻との朝が動き出してゆく。
ひととおりマッサージを終えたところで、僕は寝室を後にすると、息子はテレビをかじりついて観ていて、娘は携帯ゲーム機で遊んでいたりした。
そんな寝室に、僕はひとり目覚めたところだった。
この記憶は確かに僕の中にあり、その時の温かさや、柔らかさや、パンの焼ける香りや、子どもたちの心地よい香りに、胸いっぱいに息を吸い込んで、心の底から安心感が訪れる妻の体温を、僕はまだ覚えている。
今は距離が離れてしまっているけど、どこかで何かが繋がっている気がする。それは僕だけかもしれないけど、それでも僕はそう思えるだけで、あの時の香りを思い出して呼吸が出来る。
ゆっくりと息を吸って、ゆっくりと吐く息に、温かいものを感じれた。
消えなかったもの
登山部の仲間がいて、ウインドサーフィンの仲間がいて、祭りで繋がった仲間とも続いていたり、仕事でスタッフと関係もあったりしたとしても、たぶん僕は孤独なんだと思う。
だけど孤独ではない。息子との関係を深めるうちに、妻の質感が見えるようになり、娘の世界も感じれるようになった。
同じ景色を見なくなっても、同じ家に住まなくなっても、時間は全部消えてしまうわけじゃない。今も互いにこの世界に生まれ、今日も同じ空の下を生きている。
登山部の仲間の妻が亡くなった。
別の仲間は子どもを失った。
この世からいなくなることの重さを、僕は想像しきれない。
夢の中のプールは遊び場じゃなかった。
あそこで僕は、失ったものを見たんじゃない。
消えなかったものを確かめていたのかもしれない。
