マラソンの起源
紀元前450年
ペルシャの大軍がアテネのマラトンに上陸しました。アテネはこれを撃退。フェイディピデスという兵士が伝令となって「勝利の報せ」をもってアテネの城門まで走り、アテネの勝利を告げ絶命した。この距離が40キロと言われています。
マラソンは40㎞
1896年(明治29年)
アテネで第1回オリンピックが開かれた。アテネの勝利を報せ絶命した兵士を偲んで「マラソン競走」が行われました。この距離が40キロでした。
いつからマラソンは42.195キロになったのでしょうか。その真相を探る前にマラソン史上の不祥事に触れておこうと思います。
キセルマラソン事件
1904年セントルイス大会でマラソン史上に語り継がれる不祥事が起こりました。その名も「キセル・マラソン事件」
アメリカ選手のフレッド・ローツは疲労のため20kmすぎで倒れ込みました。そこへたまたま1台の自動車が通りかかり「あ!選手が倒れている」と運転手はローツは乗せてあげたのです。
棄権のため競技場に戻ろうと運転していたのですが車が故障で立ち往生してしまいます。その間にローツは体力を回復し、競技に復帰しました。そして1着でゴールしてしまいます。そして金メダル授与されましたが、運転手が当時の振り返りを他の人に云ったために不正がバレてしまって金メダルはく奪となってしまいました。
マラソン42.195㎞が決められた経緯
さてさて、マラソンの距離が40キロから42.195キロになった話をしていきましょう。
第4回ロンドンオリンピックの事でした。
イギリス王女アレキサンドラがマラソンのスタート地点をバッキンガム宮殿の子どもが部屋から見える地点にしてと要望します。しかもゴールは競技場にある皇室ボックス席前にしてと云うのです。
自分の子どもにマラソン選手を見せたくてバッキンガム宮殿からスタートさせて、ゴールは一番見える女王の席の真ん前です。それに従いコースをつくったところ、結果的に42.195㎞になったということです。
40キロから2キロも伸びて42.195キロ。
それで困ったのが選手です。40キロで体を作ってきて、40キロでトレーニングをしています。いきなり42.195キロと2キロも距離が伸びて、ペース配分が狂ったのが40kmすぎでトップのイタリアのドランド・ピエトリ。
この時、ロンドンは異常気象に見舞われたのもあり、ペース配分も狂い、過酷な天候とも戦いの過酷極めるマラソン競技となりました。トップ走者のドランドは暑さと疲労、渇きのため、意識がもうろうとして、ゴールの競技場に入ってきた時はとうに限界を迎えていました。そして競技場のトラックをゴールとは違う方向に進みだし、係員が教えに云った時に、係員の前でついに彼は倒れてしまいます。
それを見た係員は、ピエトリに手を貸して立ち上がらせ、ゴールまで4回も倒れたが、そのたびに係員は助けあげました。そして1位でゴール。
競技場7万人の観客は感動に包まれスタンディング。2位にはアメリカのジョニー・ヘイズが入った。アメリカチームはすぐに、ピエトリが係員の手を借りてゴールしたと抗議します。それが認められてピエトリは失格になったわけです。この事件は「ドランドの悲劇」と呼ばれた。
しかし、倒れてもなお起き上がり、倒れてもなお起き上がるピエトリの姿は、かつてアテネの勝利を報せ絶命した兵士を彷彿させ、スタジアムにいた7万人を超える観客とアレキサンドラ王妃を感動させました。王妃はピエトロの奮闘を称えメダルの代わりとして銀のカップを授与しています。
他にも第4回オリンピックは、オリンピックの原型が整った大会です。参加が「国ごと」となった。これまでの3回の大会は個人参加。旅行で訪れたついでに参加する事が出来た無秩序な競技大会に過ぎませんでした。
このようなあいまいさを排除し「国」という概念を初めて表に出した大会となっています。
これが良くも悪くも選手たちに「国の代表」という意識を覚醒させ、国の威信をかけたオリンピックの始まり。政治と密接に結びついたオリンピックへと突き動かしてゆくことになります。