日本こなもん協会が 5月(こ)7日(な)もんの日として制定しました。
こなもんといえば、お好み焼きやたこ焼きですね。
お好み焼き
水で溶いた小麦粉で、鉄板の上でグザイを焼き上げ、ソースやマヨネーズなどの調味料をつけて食します。
焼き方や具材は地域性がでて、呼び名も変わります。
- 関西風お好み焼き
- 広島焼き
- べた焼き(京都:別名ちょぼ焼き、カステラ焼きの型で焼く)
- ねぎ焼き(大阪淀川:キャベツなしねぎのみ)
- かしみん焼き(岸和田:かしわと牛脂のミンチで、かしみん)
- ちょぼ焼き(たこ焼きの原型)
粉もの料理の起源
麩の焼き説
安土桃山時代の千利休が「麩の焼き:小麦粉の和菓子」を茶会で好んで提供していた。
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もんじゃ焼き説
明治時代。東京で生まれた「もんじゃ焼き」から「どんどん焼き」になり、近畿地方で「一銭洋食」となり、お好み焼きになった。
お好み焼きの誕生と伝播
花街説
昭和6年頃。男女の出会いの場。座敷に鉄板を置き、お「好み」に応じて焼く風流な遊戯料理であった。
高級店説
最古のお好み焼き屋は、浅草の「風流お好み焼き 染太郎」で昭和13年頃。同じ頃に大阪で「以登屋」が客に自由に焼かせる「お好み焼き」が出来る。芸者や船場の旦那衆が来る高級店。市中で洋食焼きが10銭。ここでは1円50銭もした。
戦後からはじまった説
お好み焼きは、戦後、客の好みで焼くスタイルではなくなった。キャベツを焼く粉もの料理そのものを指す料名となる。
粉ものとキャベツを混ぜる調理法が近畿で発展。洋食焼きやどんどん焼きなどは、お好み焼きに統一されてゆく。本家お好み焼きは大阪というほど有名になり、鉄板で焼くスタイルと、新聞紙に巻いて立ち食いするスタイルと別れていった。
広島は独自の発展という説
広島は東京の花街スタイルも、大阪の混ぜるスタイルとも影響を受けずに、独自の発展を遂げて「広島焼き」となる。
戦後にキャベツが入った理由
キャベツは江戸時代にオランダ人によって長崎に入ってきた。食用としてではなく観賞用として楽しまれる。
幕末から明治にかけては慰留地で外国人向けに栽培された。日本人はほぼ食べない食材。北海道開拓で栽培されるようになり、それから政府主導で各地で栽培することになる。ここでも外国人向けの食材として栽培されている。
戦後の食糧不足と食の洋食化からキャベツの需要が高まり、お好み焼きでも食材にキャベツが取り入れられるようになった。