1899年(明治32年)。私鉄の山陽鉄道(現:山陽本線)で京都駅~三田尻駅(現:防府駅)で急行列車に日本で初めて食堂車が連結されて走った。
目次
食堂車の登場
- 山陽鉄道の直営
- 自由亭ホテルの請負
- 1等・2等車(グリーン車)の客しか利用できない。
3等車の客は当時行儀の悪い者が多かったので利用出来ない。食堂車はグリーン車並みの空間であったため長居されると回転率が下がる。
空いている時間帯のみ3等客への食堂車の解放されたがルールがあった。
- 3等車の乗客は1・2等車内を通行出来ない。
- 駅に停車中に車両の外を移動すること。
- 身なりを整えること。
洋食中心・・・カレーライス・コロッケ・ビーフステーキ
戦時下での廃止
戦時下における物資統制で定食が簡素化する。
- 1人1品のみ
- テーブルクロスの廃止。
- 食堂車の連結が廃止。
- 車内販売の開始。
使用が停止された食堂車は各地に疎開留置されたり3等車に改造された。
戦後の食堂車の再開
戦後は連合軍専用列車の食堂車の営業から再開した。
汽車から電車になり電子レンジをテスト運用を行い好評だった。
- 冷凍食品や冷蔵食品を電子レンジで再加熱
- メニューの幅が広がる。
寿司・蕎麦・うどん・丼物の提供がはじまる。
- 一帝国ホテル
- 都ホテル(現・ウェスティン都ホテル京都
- 新大阪ホテル(現在のリーガロイヤルホテル大阪の場所にあった)
食堂車・ビュフェ黄金時代を支えた。
火災
1972年に発生した北陸トンネル火災事故の出火原因が石炭コンロであった。
- 火を使っての調理が禁止。
- 電気レンジを持たない旧型食堂車は使用できない。
国鉄の財政難と人員不足
- 戦争引揚者の雇用対策で大量雇用。
- 職員の人件費が上昇して赤字。
- 夜間営業終了後に食堂車内でテーブルや椅子で仮眠。
- 人員不足に陥る。
客離れとマナー悪い客
- 利用客が乗客のみの回転率の悪化。
- 自由席代わりに居座る客。
- ビールやコーヒー1杯で長時間居座る悪質な利用が常態化。
電車の乗車率の低下
新幹線で長距離移動が楽になる。
航空機の利用で電車の利用が減る。
高速道路が建設され高速バスで電車利用が減る。
JR(民営化)から営業方針の転換
ラウンジカーが登場してカウンターで食事。
メニューの増加
うなぎ御飯・カレーライス・牛丼・焼そば・たこ焼き・シュウマイなど温かい料理
しかし食堂車及びラウンジカーは経営難で全廃する。そして方針転換。
乗車券+お食事券の販売
「列車内での食事を楽しむエンタテインメントとしての食堂車」というコンセプトへの転換。