1955年(昭和30年)東京・豊島公会堂で2000人が参加して第1回母親大会が開催された。
1954年(昭和29年)アメリカがビキニ環礁で広島の1000倍の威力のある水爆実験を行った。日本のマグロ漁船1000隻が被爆する事態となった。
日本婦人団体連合会は「核戦争から私たちの子どもを守ろう」と呼びかけ世界母親大会がスイスで開かれる。
活動
保育園
60~70年代にかけて各地に保育問題協議会ができた。団塊ジュニアの誕生と保育所の不足の改善を訴えました。
小児マヒ
60~61年にかけて全国的に小児マヒが集団発生。5歳以下の子どもがポリオウイルスで発症した。便から感染が広がりワクチン接種で99%は抗体が出来る。
母親大会で「ソ連の生ワクチンの輸入」を政府交渉母親たちは毎し、毎日のように厚生省をとりまき、ついにソ連から1000万人分、カナダから300万人分の輸入。小児マヒの流行は終わりました。
学校災害から子どもを守る会
- 池田小事件などの校内で起こる事件。
- サッカー試合での落雷事故で死亡する生徒。
- 熱中症による死亡。
- 保育園で子供をなくした親。
- 大学の登山研修で子供をなくした親。
池田小学校事件について
2001年(平成13年)犯人は自宅で過去に「何をやっても裏目に出る」と考えていた。復縁しようとしてもますます離れていくばかりだった3人目の元妻。小学校へ勤務していたときに薬物混入事件を起し免職になったのも彼女と別れて苛々していたためだと考ていた。
「彼女と知り合っていなければ、こんなことにはならなかった」と逆恨み。
- 消費者金融からの借金が300万円以上
- 家賃も請求され
- 将来の見通しが全く立たないとの絶望感に駆られた。
このような原因を作った元妻の勤務先がわかったときに殺しておけばよかったと後悔する。
自殺も考えたが
- 「自殺しても元妻らが喜ぶだけだ。あほらしい」
- 「大量に人を殺害すれば、元妻は自分と知り合ったことを後悔するだろう」
- 「世間の多くの人も絶望的な苦しみを味わうだろう」
そして犯行を考えるようになる。
- 大阪市内の繁華街へダンプカーで突っ込むことも考えた。
- 小学生を襲うのが簡単だと考えた。
小さい頃に憧れて同時に嫉ましくも思っていた、エリート校の附属池田小を襲うことに決めた。
犯行朝にアパートを全焼させてやろうと火の付いた煙草を布団の上に置く。自然に消える。
午前10時10分2年生の3教室に次々と侵入し犯行に及んだ。
午前10時20分1年生の教室に次々と犯行に及ぶ。
駆け付けた副校長と2年担任が宅間と格闘。
取り押さえた。15分に及んだ犯行だった。
児童8名(1年生1名、2年生7名)が殺害
児童13名・教諭2名が負傷
高校増設運動
高校への進学率は、戦後から上昇。進学率は42.5%であったが、30年代から40年代にかけて10年間ごとに約20%の著しい上昇する。49年には90%を超え、平成2年には95%に達しました。
中等教育の機会均等の理念は義務教育化で実現して、高等教育も実現されることになった。そのため能力・適性・進路等に多様性がでてきて、高校増設運動に繋がることになった。
これに先立ち第1回日本母親大会が開催された。「嫁をもらう、娘を片付けるなどの言い方をやめ、結婚と言おう」「主人と呼ばず夫と呼ぼう」「女だてらに、という言い方はやめよう」などと申し合わせた。この大会によって母親たちの社会活動の意欲が高まったと言われている。