大日本帝国見坊発布の日(明治22年)馬車に向かって万歳三唱が行われました。
日本での万歳三唱のはじまり
当時は天皇を見送る時は敬礼だけしかありませんでした。帝国大学(東京大学)の学生一同で皇居前に並び明治天皇を奉り送迎しようという事になりました。教師が提案して「万歳・万歳・万々歳」を唱和しようということになります。
ですが、万歳と云った時に、馬車を引く馬が驚いて立ち止まってしまいます。マズイと思った学生たちは、2唱和目の万歳を小声で、万々歳はついに言えずじまい。これを聞いていた他の観客が万歳と2度繰り返したと思い、万々歳は広まらなかったといいます。
万歳の意味は
もともとは中国の千秋万歳という意味です。皇帝に向けて使う言葉で「永遠や長寿」を意味します。この万歳だけが日本で広まるという感じでしょうか。
天皇陛下万歳の意味は
天皇陛下の健康と長寿をお祈りしまうという意味で使われていたようです。
平成31年の天覧相撲では天皇皇后の退席の時に、観客から自然に「万歳」という唱和が起こったといいます。
衆議院解散の時の万歳とは
衆議院解散の時に、議員が「万歳・万歳・万歳」と唱和します。これは失職する議員が「これから選挙戦に突撃するぞ」という意味だとも言われています。そうすると万歳の違った側面が見えてきます。
太平洋戦争の日本軍万歳突撃とは
資源の差から物量作戦が出来たアメリカ軍。一方、資源が枯渇し、当時のゼロ戦も鉄板が薄くつくられていました。そんななかでの戦闘。十分な弾薬も与えられず戦わなければなりませんでした。
万策尽きて最後の手段。銃に剣をつけて銃剣片手に突撃してゆきます。「天皇陛下万歳」を唱え突撃して、その突撃は全滅するまで続きました。
敵陣にたどり着いた日本兵士は、銃剣で相手を刺し殺すという白兵戦に持ち込むわけです。これは昼夜続き、ほぼゲリラ戦のごとくアメリカ軍の兵士を心理面から苦しめた作戦だったようです。
アメリカ兵のなかでは「バンザイアタック」と云われ、警戒されたそうです。泥沼や悪天候などで疲弊しているなか、バンザイアタックにも警戒しなければならないという事で、日本兵を恐怖の対象として見るようになったようです。
特に戦場のなかでの戦略性が全くなく、戦況を読み撤退をする暇さえなかったわけですから、これ以上の恐怖はないと思います。
万歳突撃の思想は
「捕虜になるぐらいなら潔く誇り高く死ね」といった思想があったとされています。実際に捕虜になり、その後に帰国したら激しく叱責されたり、ひどい差別にあったり、家族全員が非難されたりしたそうです。
独裁ヒットラーも、ドイツ軍に撤退を認めず、死ぬまで戦うことを強いたという事もありました。
イギリス軍も日本軍とシンガポールで戦闘になった時、撤退はイギリスの威信が損なわれるという理由で、撤退を認めなかったといいます。
中華民国の軍刑法には「敵に降参する者は死刑」と明記されていたといいます。
最古のバンザイアタック
万歳突撃の一番古いものでは、1943年イタリアがドイツ軍と戦った時に、スコップで突撃したという記録が残っています。もっともこれは個人レベルの小規模戦の話でしたが、こういった玉砕覚悟で突撃するという戦いのスタイルは、国境関係なくどの戦闘でもありえた話だということです。