4月27日「像の日」

1728年。幕府への献上品として清の商人が日本へ持ち込んだ。京都で天皇にお披露目した後、8代将軍徳川吉宗にお披露目した。

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なぜやってきたの?

吉宗が「像が見たい」とわがままを云ったため、2頭の像が日本(長崎)にやってくる。

2頭のうちメスのほうはすぐに長崎の地で死んでしまう。死因は甘いものを与え過ぎたから。

残り1頭は長崎から徒歩移動で江戸まで。

吉宗の感想は

白い像が来ると思っていたのに、灰色の像でガッカリ。すぐに見世物小屋へ払い先。すぐに餓死と凍死で死んでしまう。

徳川吉宗とは

テレビでは暴れん坊将軍と云われた吉宗の人間像をみてゆきます。

身長は180㎝ 色黒で威圧感がある人物

徳川御三家の中の紀州藩

  • 尾張徳川家
  • 紀州徳川家
  • 水戸徳川家

徳川宗家の血筋が途絶えた時に、徳川御三家から将軍を出す決まりになっていた。

徳川家の踏襲で将軍の名前には「家」が入っているものだが、吉宗だけは違った。つまり吉宗は将軍になる予定ではなかった。

越前藩主になる

5代将軍徳川綱吉との謁見。付き添いときて謁見しない予定だったが、老中の計らいで謁見を許される。その場で越前国丹生郡(福井県)3万国の藩主に抜擢される。藩主になった後も和歌山に残り、当地は家臣にまかせていた。

紀伊藩主になる

和歌山城下に出向いて、庶民の暮らしを眺めて自由きままに生きてきた。

しかし、兄が死に22歳で5代紀伊藩主になった。

庶民の目線で考える

紀州藩は財政難。木綿の服を着て「質素倹約」をして経費を削減。和歌山城大手門には「訴状箱」を設置し庶民の意見を吸い上げる。これは江戸城でも「目安箱」としてつづく。

夫婦喧嘩を目撃。隣の人が仲裁に入ると「殿様でもない奴の云う事なんかきけるか!」というのを聞く。「殿様の4男坊の言葉で足らぬだろうが、夫婦仲良くして暮らせ」と伝えると夫婦は仲良くしたという。

将軍になる

家継が死に、徳川宗家の男子が途絶え徳川御三家から将軍を出す事になる。

尾張徳川家は将軍争いをするなと家訓があり、それに従い手を上げず。紀州徳川家から出すことになる。

暴れん坊将軍の誕生

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この記事を書いた人

福祉事業の経営をしてます。①小規模多機能のケアマネ②現場の介助③厨房で料理作り④体操教室など地域ボランティアをしています。
「やってみる」を軸に人生の幅を広げます。ウインドサーフィン・登山・カメラ・バイクはSV650・競馬・FX・株式投資・投資信託などなど。体験を記事にしています。

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