10月12日「コロンブス・デー」

1492年10月12日

イタリアの探検家クリストファー・コロンブス率いるスペイン船隊が新大陸アメリカに到達した。アメリカの祝日になっています。

目次

子どもの頃は

コロンブスは父親の仕事を手伝って船にのっていました。

弟は地図製作をしており、弟と一緒に地図製作や売買をして暮らしていました。その合間に航海もして経験を積むことになります。

憧れの貴族

1479年にフェリパという貴族の娘と結婚しています。コロンブスは生涯にわたって地位や役職に強いこだわりを見せています。貴族の娘であるフェリパと結婚することにより権威を手に入れたかったのでしょう。

フェリパが25歳で遅い結婚であったことで婚期を逃した娘を狙い、貧乏な没落貴族を金で買うような感じで、コロンブスが航海と地図製作で成功していたこと。これが貴族と結婚できた主な理由でした。

貿易商として金銀を求める冒険心

1480年に長男ディエゴが生まれる。翌年にアフリカへ航海している。アフリカに城を築く航海であった。当時はアフリカで金や象牙などが儲かったと言われている。コロンブスは熱帯には人は住めないと書物で知っていたが、実際にアフリカに行きそこで人が生活していたことに驚きました。

東方見聞録

4冊から成りマルコポーロのアジア旅行記を記述した本。マルコポーロに伝え聞いた事を第三者が本にしている。

黄金の国ジパングにマルコポーロは一度も訪れた事なかった。中国で噂話を聞いた程度であった。「大量の金がとれる国で、すべての家は金で出来ている」というジパング伝説には、遣隋使の日本使者は砂金を持ってきたという事や、中尊寺金色堂が誇張されて伝わったものであった。

当時のヨーロッパの人々はマルコポーロの云う事は嘘ハッタリだと信じず、嘘つき呼ばわりされていた。それが本になり大航海時代のコロンブスに大きな影響を与えました。

黄金の国ジパングへの憧れ

地球球体説が一般的になりつつある時代、コロンブスは東方見聞録にある黄金の国「ジパング」の虜になっていた。シルクロード経由でジパングに行くには遠すぎる。コロンブスは西回りで進めばジパングに早く着けるという考えを持つに至り、なんとか実現しようと躍起になりはじめた。

当時は世界の大陸はヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸で成り立っていると考えられていた。

ポルトガルでの活動

1484年に王室へ提案する。ジパングへの西航路を見つけたら報酬と高い地位を約束してほしいと訴え、加えて航海にかかる資金援助を求めたのだった。だがしかし王室の返事はNO。妻のフェリバも死に借金を抱える。ポルトガルを去ることになった。

スペイン王室への売り込み

スペインにきたコロンブスはすぐさまスペイン貴族に自分を売り込むことに成功。吸う責の船と食料と資金を調達できた。西航路への開拓が現実的になってくる。あとは王室の許可が得られれば出航の段取りであった。しかしなかなかスペイン王室の了承は得られず、諦めて次はフランスへ渡ることにした。

スペイン王室との契約にこぎつける

フランスに行こうと船にのり出航してピノス・プエンテ村で補給を行っている時に、スペインの使いの者から西航路の計画がスペイン王室の了承を得たと村の橋の上で聞くことになる。

1492年。ついにコロンブスは王室と契約を結ぶ。それは「サンタ・フェ契約」と呼ばれた。

  • コロンブスの発見した土地は終身総督になり地位は相続できる。
  • 総督領(発見した土地)から得られた収入の10%をコロンブスの取り分とする。

新大陸発見と略奪

1492年8月3日出航。サンタマリア号を含む3隻で乗組員90名。大西洋は島の少ない大きな海。乗組員はだんだん不安が込み上げてきました。

コロンブスの計算どおりにいかず到着予定日をすぎても大陸は見えてこない。2カ月後の10月6日に暴動が起きてしまう。仕方なくあと3日航海して見つからなければ戻る方向で調整し船員たちをなだめた。

10月11日に島をみつけて上陸。待ち構えていたのはインディアン。水、食料、オウム、絹、槍を贈られた。だがコロンブスの探し求めていたのは「黄金の国ジパング」であってオウムなどには興味がない。その後インディアンから金銀宝石と真珠などを略奪して逃げる。

船を進めると次はキューバー島を発見した。しかし黄金は見つからない。そのうち仲間割れが起きてピンタ号が独断で離脱。

12月24日にサンタマリア号が座礁し、その残骸を利用して要塞を作る。これがアメリカ初のスペイン入植地になった。この基地には39名の男性が残った。

年が明けて1月6日に独断離脱したピンタ号と合流。そのままスペインへ帰り着いたのが3月15日だった。

スペイン王室の計らいで盛大な式典が開かれた。インディアンから略奪した財宝の10分の1を手に入れ、新大陸発見の賞金を受け取っている。

見つからない金とインディアン虐殺

そして2回目の航海。ありったけの黄金と奴隷を手に入れるためにプランを練り、王室は気前よくコロンブスに出資した。

1493年には17隻で1500名で出航。植民目的の出航。到着するとサンタマリア号で作られた基地は破壊されており、基地に残った39名全員が殺されていた。インディアンの報復にあったのだった。

これに対してコロンブスは徹底抗戦を試み、出会ったインディアンを無差別で虐殺していった。最初は統制出来ていたコロンブス軍であったが、コロンブスが病で軍隊を離れると狂暴性を増して5万人以上のインディアンが殺されてしまった。

病から回復したコロンブスは無秩序な軍を組織化されたコロンブス軍に立て直す。数百の兵士と軍用犬で武装したコロンブス軍は、非武装のインディアンの村を次々になぎ倒しスペインの殺戮モデルとして定着することになった。

インディアン大虐殺をして奴隷をスペイン王国へ送るコロンブスだったが、コロンブスの統治のやり方に疑念をもったイザベル女王は調査委員を派遣する。

焦ったコロンブスは次は金をインディアンに要求し、金を治めたインディアンには首掛けの標章を送り、量が足らないインディアンには男女区別なく手首を切り落とした。

コロンブスの転落人生

コロンブスのやり方に不満をもつ入植者たちが反乱を企てるようになり、コロンブスはスペインへ強制送還になり、すべての地位をはく奪されてしまう。

罪を逃れたコロンブスは、再び航海を計画するが、与えられた船はボロ船4隻。1504年に出航したが築き上げた入植地に入港拒否にあい、さらに難破してスペインに舞い戻りました。


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この記事を書いた人

福祉事業の経営をしてます。①小規模多機能のケアマネ②現場の介助③厨房で料理作り④体操教室など地域ボランティアをしています。
「やってみる」を軸に人生の幅を広げます。ウインドサーフィン・登山・カメラ・バイクはSV650・競馬・FX・株式投資・投資信託などなど。体験を記事にしています。

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