隅田川の花火大会が、1733 年 (享保18年)第八代将軍徳川吉宗の時代に隅田川で行われました。
この年は記録的な大飢饉に見舞われ食料難に加えて、栄養が十分にとれないためにコレラの大流行。全国で多くの死者が出ました。幕府はその慰霊と悪病退散を祈る水神祭りを行い、20発ほど花火を打ち上げました。
花火の発明
紀元前3世紀ごろ戦乱の中国を統一したのが秦の始皇帝です。頻繁に起こる戦の通信手段としてそのころに火薬を「のろし」として使っていました。夜中の「のろし」は煙ではなく光で伝える必要があったのです。それが花火の起源です。
ヨーロッパに伝わる
13世紀以降、祝砲の音を大きくしたり、煙に色をつけた。生産地はイタリアであった。
14世紀のイタリア・フィレンツェで観賞用の花火が作り始められる。キリスト教の祝祭で花火が使われた。
16世紀に、イギリス王室ヘンリー8世は、王室の結婚式、誕生日などで水上花火を楽しんだという記録がある。
日本最古の花火大会
1589年 伊達政宗が米沢城で花火鑑賞をしたという記録が残っています。
1613年 イギリス国王の使者が徳川家康に花火を駿府城で披露したと記録が残っています。
この頃の花火は鉄砲の火薬を花火にしたものなので、筒に火薬を詰めて火花が噴き出すものでした。
たまや~の由来
江戸時代に有名だった花火師のお店(玉屋)を叫んでいるわけです。競合他社として「鍵屋」があり、「たまや~」「かぎや~」と叫んでいるのです。
玉屋と鍵屋の二大花火時代が江戸時代である。玉屋のほうがキレイな花火を作る事で一歩リードしていたのであった。
玉屋の廃業
1843年5月16日(天保14年4月17日)玉屋から出火して約1500坪(テニスコート5面ぐらい)ほどの町並みが燃える火事を起こしてしまう。
江戸時代の家事は重罪で、玉屋は財産没収されて江戸の町から追放されてしまった。
ライバルの鍵屋は花火技術の継承を続けて、第二次世界大戦期に13代天野太道が花火製造を中止する事になったが、戦後に復活し2013年時点では打ち揚げ専業業者となっている。現在は15代目(2022/5/28現在)