新潟県長岡市が市制90周年を迎えた平成8年に制定。
幕末維新の風雲は、戊辰戦争で長岡城下にも及んだ。
戊辰戦争とは
明治天皇側(薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍)
旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)
日本最大の内戦である。
長岡藩は奥羽越列藩同盟に所属して新政府軍と徹底的な戦闘を行った。
250年あまりをかけて築き上げた城下町長岡は焼け野原になってしまった。
小林虎三郎
幕末に佐久間象山の門下生であった。「興学私議」という教育論を書いた。
「興学私議」の要約
ペリーが来航して軍備を整えている。しかし戦力の差は縮まらない。
これは真の学問がない。兵を知らないものが軍を率い、学ばざるものが政治を執り行っている。
西洋の学問に驚く。学校を作り人材を養成し軍備を整えている。
日本には人材がいないので強くなれない。
国家は、学校を建てて教育する。人材を育てて世界の国々と肩を並べるべきだ。
小林虎三郎は、戊辰戦争に参戦することに反対であった。
敗戦後、見渡すかぎりの焼け野原のなかで人材を育成を決意する。
明治2年(1869)昌福寺の本堂を借りて学校を開校して、子どもたちに学問を教えた。
米百俵
翌年5月、長岡藩の窮状を知った三根山藩から米百俵が贈られてきた。
食べるものにも事欠く藩士たちにとっては、のどから手が出るような米であった。
しかし小林虎三郎は、この米百俵を売って、その金で学校の運営費とした。
「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」
明治3年新校舎が開校した。
- 国漢学校に洋学局を開局。医学局も開局した。
- 入学は勉学に興味があれば町民や農民の子どもも入学できた。
小林虎三郎の教育方針
「時勢に遅れないよう、時代の要請にこたえられる学問や芸術を教え、すぐれた人材を育成しよう」
ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出された。東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥……。
この国漢学校は現市立阪之上小学校に引き継がれ、「米百俵」の精神は長岡市のまちづくりの指針や人材教育の理念となって今日に至っている。
小泉純一郎の所信表明
2001年4月第1次小泉内閣
総理大臣として所信表明演説を行った。
明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に、救援のための米百俵が届けられました。米百俵は、当座をしのぐために使ったのでは数日でなくなってしまいます。
小泉首相の所信表明演説
しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として活かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。
今の痛みに耐えて明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか。
新世紀を迎え、日本が希望に満ち溢れた未来を創造できるか否かは、国民一人ひとりの、改革に立ち向かう志と決意にかかっています。