世は徳川幕府、第5代将軍徳川綱吉の時代。1683年(天和3年)18歳の八百屋の娘・お七が、放火の罪で3日間の市中引き回しの上、火あぶりの極刑に処せられた。
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なぜ放火をしたのか?
前年の12月28日に天和の大火で、お七の家は燃えてしまった。そしてお寺に身を寄せる事になるが、寺小性の生田庄之助と恋仲になる。
やがて八百屋が立て直されて寺を離れるが、お七は庄之助の事を忘れる事が出来ない。もう一度火事になれば庄之助に会えると思い3月2日に放火をする。しかしボヤ騒ぎで終わり、お七は放火の罪で御用となった。
そしてお奉行で「君はまだ17歳だろう。なぜそんな恋のために罪を犯すのだ」と言われた。お奉行は極刑を避けようと17歳だろうと云ったのだが、その意味を理解できず「私は18歳です」とお七は云った。その瞬間、火罪が決まった。
お七は市中引き回しの刑の後、火あぶりで死罪となった。
「八百屋お七」は、江戸時代初期の事件を基にした物語です。「17歳の美少女が恋人会いたさから放火をして死刑になる」というセンセーショナルなストーリーは、次から次へと創作が重ねられました。
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江戸時代の放火の罪は「火罪」
火あぶりをして死に至らせるという死刑
市中引き回しの刑とは?
江戸時代の「市中引き回しの刑」とは、死罪以上の判決を受けた罪人が受ける追加の刑です。死刑囚を馬に乗せて罪状を書いた札と共に刑場まで公開で連行していく制度でした。この刑は市中を引き回すことで、罪人を恥辱に晒し、見せしめにする事で、犯罪抑制を狙ったものでした。
火あぶりの刑とは?
火あぶりは公開処刑で、凶悪犯罪をする者は、悲惨な死をもって償わさせるという強いメッセージ性もありました。