鼓膜に心地よい声

夢を見ていた。どんな夢だったか思い出せない。ただ、まとわりつく感覚だけが残っていて、急かされるような、問い詰められるような、そんな感じだった。

目が覚めると、体中が悪寒で震えていて、自分の体であるが、制御できないほどに勝手に動いた。体温計で測ってはいないが、38度以上はありそうな体の反応だ。

このタイミングで発熱するのか。午前中の通院で、風邪薬を処方してもらったが、あれは何だったんだろう。

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温かい女性

何か喉に引っかかりを感じて、「ケホケホ」と咳が出た。何度も何度も咳をして、違和感は取れずに、どうしたもんかと思案していた。

「主任、風邪ですか?」と中山(仮名)さんが言い、「イソジンでうがいしたらいいじゃないですか。」と提案してくれて、そうか、うがいという手があったかっと妙に納得した。

この時、鼓膜に温かいものを感じて、何だろうと少しの引っかかりを感じた。不安になっている時に、掛けてもらえる言葉が、これほどまでに温かいものなのか、と思うと同時に妻のことを思い出した。温かい女性というイメージが、未だに僕の中であるのだろう。じゃないと、このキッカケで妻のことを思い出さないはずはない。

鼓膜に心地よい声

夜勤を終えて職場を後にする。火曜日の夜勤終わり、水曜日が僕の休みになる。この休みを利用して、私用を片付けてしまうのが僕のライフスタイルになっていた。この日は血圧の薬がもうなくなっていたので、主治医のところへ行くことにした。

「体調どうですか?」という伊川(仮名)先生は、言葉をセットメニューで話す癖がある。

「先生、昨日からちょっと喉がイガイガして、少しの寒気も感じるんですが、うがい薬と風邪薬を処方してもらえませんか?」っと伊川先生に、直球でお願いした。薬の処方などは、医師の判断であり、僕から言うことではないのだけども、寒気がでてきていたので余裕がなかったのだ。

「風邪引いてるんですか?そうですか。コロナが流行ってるんですよ。特に医療従事者を中心に。心配ですね。それにインフルエンザも流行ってきていますから。と言っても関東の方ですけどね。職場に、咳をしている人とかいませんか?」っと、いろんなものをセットにしてぐちゃっとまとめて一気に話す。こういう会話をする人と、会話の呼吸を合わせるのは難しい。

「ひとりだけ喉の調子が悪いっていう女性がいますけど」っと短く答えた。伊川先生の会話は忙しないから、短く答えるので精いっぱいだ。まるで、水泳の息継ぎのようで、鼻から水が入ってくる苦しさを感じる。

「コロナといっても最近のコロナはそうきつくないし、そもそもコロナ検査せずに様子見でいいと思います。発熱を押さえるものと、喉がイガイガしているから、痰を切るクスリと処方しましょうか。他になにかありますか?」と言うので、僕はこの世界から逃げるように「ないです。」と答える。

「じゃ、お薬だしときまーす。」と伊川先生が僕から視線を外して言い、この語尾を伸ばす感じが診察終わりましたの合図だ。

僕は診察室を出て、待合室のソファーに座る。受付には2人の女性がいて、ピンクのナース服を着ているが、ただの事務職だ。看護師はえんじ色で、これが真っ赤な血の色に似ていて、本当に趣味が悪いなと思う。

名前を呼ばれて、お会計をしようとした時に、1人の受付の女性が「泉佐野で飲んでたんですか?」と言ったから、僕は目を見開いて呼吸をするのを忘れた。「え?なんで知ってるの?」と言うと、「私も同じホームにいたんで」と笑顔で答えた。「うん。土曜日だったかな。飲んでたよ。って君は泉佐野に住んでるの?」と僕は言うと「いえ、私も住之江で飲んでたんですけど、乗り過ごしてしまって、泉佐野で降りたんです。」と言ったものだから、この受付女性もなかなかにのんべぇだなぁと興味がでた。

「すごい偶然だね。その時声かけてくれたらよかったのに。飲み直しもできたのにさ。」と言うと、「今度また見かけたら声かけますね。」と社交辞令なのかどうかわからない返事をした。社交辞令から始まるものもあるが、あまり僕にはそんなこと関係ない。面白いなと思った子には声をかける。種をまくのに似ていると思う。なにが芽吹くかわからない。それに、今では境界線を引けているので、飲みに誘って断られたとしても、相手にも事情があるんだなとそれだけのことだ。自分が人格否定されたという思考の飛躍はしない。

誘って断られる。ただそれだけの出来事なのに、気構えてしまっていたのは、「断られるのが怖い」という自己防衛がある。そして「怖い」のは人格含めて拒否されたと思考が飛躍するからだ。この原因は様々だけど、自分の軸があやふやだと起きやすい飛躍なのかなと思っている。自分はどういう生き方をしたいか。自分が何を大切に生きていきたいかと考えがまとまっていると、相手の事も大切にできる。だから断られたとしても、相手の事情を考慮できる余白が生まれる、のかもしれない。

この2人の受付の女の人とはよく喋るので、2週間ごとに無駄話しを楽しむ。感じることができれば、いろんな発見があって面白い。そして、他者との関わりは小説のネタにもなってくれるから、人と関係を結んでいくことは、やっぱり種をまくことに似ている。

クリニックを後にして、僕は薬局に向かい処方箋を差し出した。

「あら。クスリ増えてますね。」と薬剤師の女性が言うので「ちょっと風邪引いたんですよ」と言ったら「飲み過ぎじゃないんですか?」と彼女は笑った。

「そうなんだよ。この前 2日連続で記憶なくしてさ」と言うと「もういい歳なんだから、楽しいお酒にしましょうよ。」と言った。楽しいお酒か・・・。そういえば別れた妻もそんなことを言っていた。「1缶を美味しく飲みなさいよ」っと。

「美味しくのみなさいよ」という妻の声は、モールス信号のようにリズムがある。抑揚もそれに応じて語尾を低くした。あのリズムと抑揚が鼓膜に心地が良かった。「なあに、もうやだ。本当にやだ。何してるのよ」と言ったネガティブな言葉でさえ、今の僕の中で残響として残っている。たぶん、もうこれは長年にわたって染み込んだ妻の声なので、旋律のように耳に残る。もう消える事はないだろう。

そして、妻の話し声が思い出される時、なんだか落ち着いた。

自分らしさ

午前中の通院から帰ってきた。

体調は優れなかったが、薬ももらってきたことだし、お昼ご飯はうどんを作り、そして風邪薬を飲んだ。体がだるかったのもあり、夜勤明けということもあり、ひと眠りしようと布団に入ったが、なかなか寝付けなかった。体がこわばっているからだ。

それでも次第に、夢の中へ落ちていく。多分また同じ夢を見る。どこかの旅館にいるか、どこかのビルにいるか、どこかのリゾート地にいるかだ。なぜ同じ夢を繰り返し見るのかはわからない。だけどその夢の中では懐かしい感じがする。

今回は薄暗い旅館にいた。旅館の廊下は畳で両端には襖が閉められている。中は薄暗くまっすぐ続く廊下の先には、新館と別館の間に段差があり、少しの階段を挟み進むと、襖はなくなり左手に部屋のドアがポツポツとあり、右手には窓があり外には人工的に植えられた痩せ細ったヤシの木がある。僕は部屋に入ることなく温泉の脱衣所に入り、まるでジャングルのような木々が茂った温泉に入る。そこは混浴で、湯気のなかで見知らぬ人と会う。

ChatGPTにこの夢について聞いてみると、僕の深層心理には「過去へ戻る」のではなく、「まだ知らない自分の領域へ進んでいく」という動きがあるのではないか、と分析された。
閉ざされた襖は、すべてを理解しようとしてきた僕が、分からないものを無理に開けなくなったこと。途中の段差は、これまでの生き方から次の段階へ移りつつあること。人工的に植えられた痩せたヤシの木と、最後に現れる鬱蒼とした温泉の木々との対比は、「役割に合わせて整えられた人生」から「自分の内側から自然に生えてくる人生」への移行。そして温泉で服を脱ぐことは、父親、経営者、ケアマネジャーといった役割を脱ぎ、「ただの僕」に戻っていくことなのではないかという。
つまりこの夢は、帰る場所を探している夢ではなく、これまでの役割を脱ぎながら、まだ自分でも知らない人生の奥へ進んでいる夢だということだ。

18時頃に起きた。

今日は佐藤さんと飲みに行く約束をしていた。スマホを確認すると、えりさんから「三徳7時予約できましたー。」と LINE が入っていた。三徳に行く前に薬だけ飲んで行こうと風邪薬を飲んだ。血圧の薬も。

いつものように少し早めに行き、三徳ののれんをくぐると、いつもの女性店員がこれでもかという笑顔で迎え入れてくれて、「いつものでいいですか?」とメニューを開く前に尋ねてくれる。

ほぼ僕は何も選択せず、余市のハイボールが出てくる関係が、この三徳で育った。

水曜日だというのに、僕の座敷は埋まっていて、カウンター前の座席も両端が埋まっている。ポツンと開いた真ん中の席に僕1人だけが座っていて、いつものようにiPad を出して小説の続きを書く。と言ってももう出来上がっていて、今はリライト中だ。

まず初めの初稿は、物語を作るという書き方になってくる。そして2回目のリライトは、各々の登場人物の発言の根拠であったり、心理であったり、価値観からの反応をチェックしたり。つまり、どう物語が進んでいくか分かった上で、登場人物の立体感を作っていく書き方になる。作家がこういった書き方をしているのかは知らないけれど、僕なりの書き方なのだ。自分らしさを追求すればいい。っと最近は素直に思える。他人に合わせて生きることに、もうほとほとうんざりしていたから、自分らしさを追求すればいい。本当にそう思う。

先ほどの女性店員が余市のハイボールをテーブルに置くのと同時に、身を乗り出して僕が覗いているiPadに興味津々に質問してくる。「いつもそれ書いていますけど、それってもしかして小説?」といった。

埃っぽさとタバコの空間に、ほんのりと香水が漂ってくる。iPadを覗く彼女の髪の毛が、僕の肩にかかるぐらいの距離感だったので、自分の境界を越えられる時の、自分の反応はこんなもんなんだと感じるには、面白い体験だった。

「そうだよ小説だよ。9月末〆切の応募作を書いてるの。」

「すごいですね。」と彼女は驚く。まあだいたい、僕が小説を書いていると知った人は、そういった反応してくる。だから僕は「新人賞取ったら、また褒めてよ」と返す事にしている。

なんだか最近はモテ期で、いろんな女性から興味を持たれる。そして僕もそれに抵抗しない。興味が出たらお誘いして飲みに行ったりもする。それは男女分け隔てない。他人を感じるほどに面白いと知ってしまったから。

そしていつものように佐藤さんが現れて、「エロ小説書いてんか?」とボケて、えりさんが「どう?順調?」と聞いてきて、佐藤さんは白州のハイボールを注文し、えりさんはカルピスを注文した。

発熱

いつものように記憶を失うまで飲んで、そして目が覚めると、地獄だった。

悪寒がするし、体は震えるし、関節が痛いし。あまりにも寒かったので、45度設定の熱いシャワーを頭から浴びた。湯気がもうもうと立ち上がり、カリカリに乾いた喉の粘膜に湿気がまとわりつく。さすがに 45℃は悪寒がするときでも、熱く感じたが、体が芯まで温もってくれるまで、ひたすらにシャワーを浴び続けた。

体があったまったはずなのに、悪寒が再び出始めたので、冬にネットで注文して気に入ってた着る毛布を身にまとい、靴下を履き、首にタオルを巻いて再び寝る事にした。

この発熱で熟睡できるはずもなく、何度も起きながら、体勢を変えた。背中が痛み、膝が痛み、喉が痛む。どう寝たとて痛みは取れなかった。

苦しみと不安のなかで、右へ左へと体勢を変えているうちに「もう、なにやってるのよ。もう、やだ。」という声が彼女のリズムと抑揚を伴って聞こえてきた。

「ホントに、そのとおり。君のいった通りだったよ。」と、今日飲みに行った事を後悔した。

「うがいクスリもらったんでしょ?」と言うから、伊川先生に処方してもらったうがい薬があったのを思い出した。あの青いやつだ。ヨロヨロの身体を起こして、うがいをして喉のイガイガを一時的にでも取ることができた。

「官兵衛の言うとおりだな」と僕は心の中で言い、そのまま布団にもぐり込んだ。どんな体勢だったのか、もうわからない。

官兵衛というのは、大河ドラマ「官兵衛」で、優柔不断な御着の殿が言う「官兵衛の言うとおりじゃ」というセリフだ。妻を官兵衛になぞらえて、僕が御着の殿だ。「あなたの官兵衛なんだから、少しはちゃんと言うこと聞きなさいよ」と彼女は言っていた。

そんな彼女も、今は遠いところにいる。

フラフラ勤務

木曜日の朝、気を張っていたので、悪寒はなくなってはいたが、ふらつきを感じた。

玄関のドアを開けると鳥肌の立つ肌を風が撫でた。熱い風は今日も猛暑を伺わせた。階段を降りるたびに自分の足ではないようでふらついてしまう。最後まで降りきった時に事務所の明かりが消えていたので、こんな時に僕一人で事務所を開けなくちゃいけないことを呪った。

事務所を出てデイルームまで歩くと、いつもなら容赦なく体温を日差しが照りつけるのだけど、曇っていたから比較的楽に来れた。デイルームのドアの前には青やピンクや黄色の花が飾られていて、まだ建物の影になっている時間帯に水をやってしまうのか日課だったが、今の僕にそんな余裕はなかった。

送迎はクーラーをガンガンにかけて窓を開けた。空気をこもらせてしまうと感染リスクが高まるからだ。なるべく利用者さんに接触しないような仕事を選び、今日という木曜日をやり過ごした。

金曜日、比較的元気な金曜日。

この日はまだ動ける方だった。体調不良で全ての臓器のリズムが狂ってきていたから、耳鳴りはするし歯茎が浮いているような気がするし手の先がしびれているような気がするしふらつきもあるような気がする。昨日の木曜日は地獄だった。仏教には六道という教えがあって、人は死ぬと生まれ変わり輪廻転生を果たすようだ。現世でのカルマにおいて、天道、人間道、飢餓道、畜生道、修羅道、地獄の6つの世界でまた生まれ変わるらしい。木曜日が地獄道だったから、今日あたりはまだましな世界で生きることは叶うだろう。

土曜日、睡魔で倒れる土曜日。

体の回復

いつまで経っても回復の気配がなくて僕の体の中では細菌が暴れていた。咳が出続けて喉は痛い。恐々と咳をして声帯を削らないように注意していた。かすれた咳が出始めると、咳をするにも気持ちが悪い。そんなことにはならないように。

今日まで頑張った。今日ぐらいはわがまま言ってもいいだろう。朝出勤してきた相談役の東側(仮名)さんに、「午前中に病院行きたいんだけど、時間つくれるかな?」と聞くと、「わかりました。ちょっとシフト見てみます。」と彼女はテキパキとシフトを眺めて、スタッフの配置をやりくりした。さすがに頭の回転が速い人だったから、僕はこういった時に頼りにする。

「送迎組み変えましたんで、朝から通院行ってきてください。その代わり、午後からのココは人が足らないから現場よろしくお願いします。」っと明快な答えが返って来た。それがとても気持ちが良かった。

そして診察室で「先生、まったく治らなずのクスリがなくなったので、追加でもらいに来ました。」と言うと、伊川先生は「ちょっと色々と聞かせてくれる?」といって、聴診器を取り出して、珍しく診察をしだした。そしてサキュレーターで酸素を図りだす。伊川先生の雰囲気が少し変わるのを感じた。いつものセットメニューのような会話は影をひそめて、言葉が淡々と静かになっている。

「肺炎にはなっていないね。」と言い、「一応、以前だした薬は強い効果があるクスリなんだよ。」と首をかしげていた。僕はしんどいのもありタイミングを図らず、槍を投げるが如く「来週は夜勤もあるので、多めに薬を出しといてくださいよ。もうしんどすぎて、混浴温泉の中で、熟女にディープキスを迫られる夢を見るんですよ。」と、伊川先生がどう思おうと関係なく言った。何度も同じ夢を見るのは同じで、細部だけ違う事がある。温泉のくだりでデブの女が複数人ほど現れて、抱き着かれてベロちゅ―されるという悪夢を観て、体中が汗で濡れていた。

診察を終えて診察室を出ると、受付の女性2名が笑っていて、「最高の夢じゃないですか。」と言った。診察室と受付の間には、紙のカルテを渡す小さな穴が開いてあって、そこから声が漏れるのだった。僕が独身だと知ったのもこの穴からだ。ラブホテルであるような顔の見えないやり取りが出来る穴というのは、不思議とインモラルな湿気を伴った音が良く通るみたいだ。「〇〇さん独身なんですか?」と目を見開いた瞳に、なんとも湿っぽい女性の香りがしたのは、気のせいではないはずだ。

午前中のうちに診察を終えて、デイに戻ってきたのが10時だった。処方されたクスリはたった4日分で、抗生物質と風邪クスリが2種類追加されていた。

「これで治らなかったら、必ず通院に来てよ。」と伊川先生は言っていたから、てっきり1週間分は出してくれるのかと思っていたけど、4日分で5日目には通院に来いという意志を感じる。伊川先生はテキトーに見えて、実はそうじゃないのかもれしれない。

ただ風邪クスリが、2種類になっていたので、効果は絶大で午後の送迎は、睡魔がかなりやばかった。信号待ちでウトウトと寝てしまうことはあり、走行中にでも意識が飛ぶぐらいだったから、いつ事故をしてもおかしくないような運転だったと思う。

最後の利用者さんを送り届けて、そしてローソンの駐車場で意識が途切れた。ほんの30分ぐらいだったと思うが、深い眠りにつき、起きた時には幾分思考がマシに働いた。そのままデイに戻り、現場責任者の中山(仮名)さんだけが仕事をしていた。

ジェンダーはもういいよと言うのだが、中山さんはこういう。「主任が男だからコーヒーを入れるわけではなくて、働いてきた人にお疲れ様でしたという意味でコーヒーを入れるんですから、そうジェンダージェンダーと言わないでください。」

仕事の手を置いて、わざわざ僕の好きなアールグレイをアイスで作ってくれた。僕は買ってきたデザートを、中山さんに渡して「これここに置いとくね」とパイ生地シュークリームをデスクに置く。それを見た中山さんは「わぁ。美味しそう」と僕から見ると少しオーバーに表現し、「ありがとうございます。」と美味しそうに食べた。そのキッカケで僕は妻を思い出す。妻のお気に入りは名古屋発祥のケーキ屋さんでハーブスと言った。そこのミルクレープが大好きだった。クレープ生地は何層にも重なって、その間にクリームがたっぷりと塗ってあって、いちごやキウイやバナナなんかも入っているのだろうか、とにかくいろんなフルーツが入っている。それを妻の誕生日にホールで買って、結局、冷蔵庫に入れながら、何日かで平らげてしまったので、よほどの好物なんだろうなといま思っても感心する。

口元に当たる氷が気持ち良く、アールグレイを一気に飲み干して、僕は椅子に倒れこんだ。「もう動けない。」と言ったのが土曜日の16:30だ。明日は日曜日で、しばらくは仕事から解放される。

「中山さん。僕は限界だから、後の戸締りはよろしく頼む。」と言うと、「主任、ゆっくり休んでくださいね。」と送り出してくれた。いつもと反対だ。デイルームに入るドアでゆっくりとお辞儀をして「お疲れ様でした」と帰るのは中山さんだったから、それを真似して僕もデイルームのところでお辞儀をしようと試みたが、肝心の声が全然出ない。疲れ切っていて声が出なかった。

そのまま、自宅に戻り倒れ込むように意識を失った。

彼女を大切にする

何度か咳で起きたが、空が明るくなってくるにつれて、まどろむ意識の中で、街の朝が騒がしかった。だんじりの太鼓の出囃子が、次第に大きくなってきて近づいてくるのを感じる。そういえば佐藤さんが、ブレーキテストの時に町内曳きをするとか言っていたのを思い出した。

「そうか、今日はブレーキテストか」

昨夜は何度も起きていたので、そのまま夢の中へ落ちてしまう。そして僕はだんじり祭りを見学していた。商店街から出てくるだんじりを眺めていると、うちの町のまといが出てきた。別に見つかっても構わない。どんなやり回しをするのだろうと、しばらくだんじりを眺めていると、寺埜さんが前梃子を持っていた。実際にそんなことがあるわけはない。これは夢なのだ。

寺埜さんは、僕を見つけると「お前も入ってこい」と声を掛けてくれた。寺埜さんの前には青年団がいて、そのほとんど全てが子ども会との繋がりだったから、多くの子供達に声をかけていた。多分、この人は町内の中で関係を育てていける人なんだろう。そして関係の中で自分の暮らしがあるんだろう。そんな生き方も素敵だなと思う。そんな寺埜さんに「お前も入ってこい」と言われたとしても、これ以上は入れませんと僕は答えるだろう。そこに入ってしまえば、僕は余裕がなくなり、再び自分自身を生きれなくなるのを知っているからだ。

だからそことは距離を取る。自分自身を守るために。

回復しきっていない体をいたわりながら、そんなことをつらつらと考えていると、ふと理解が追いついたような気がした。人との関係を作っていくのがうまいと思われた妻。いつだって全く知らない人とおしゃべりに興じて、相手の心を惹きつけてしまう妻。

そんな妻でも、僕と一緒にいると多分窮屈に感じたんだろうと思う。当時の僕は役割人間で、町会、育成会、祭礼団体、市民協議会、自主防災会、福祉委員会、選挙運動など、ざっと思い浮かべるだけでもこれだけある。他者に必要とされる人であろうと承認欲求に振り回されていたわけだが、その生き方に付き合ってくれたのが妻だ。

そんな息の詰まりそうな生き方に、巻き込まれる形で妻も妻ではなくなっていく。ここで妻とは言っているけれども、妻という呼称も実は役割そのもので、本当にありたい自分は〇〇〇(妻の名前)だったのだ。自分の形をしっかりと持ち、自分の行き方ができてると実感できてから、余裕ができた力で他者貢献するのであれば、それは社会貢献という名のもとの生きがいとはなるだろう。

しかし順番が逆で、自分を犠牲にするような時間の使い方をすると、途端にそこから距離を取りたくなる。そう距離をとって自分を守ろうとするのだ。

そんな理解が僕の中で追いついて、そうかそうだったかと少し僕は安心した。実はもしかしたら僕は嫌われてはいなくて、全人格を否定されて拒否されたわけではなくて、あなたといると自分が無くなってしまうから、自分を守るために離れたという選択をしたのかもしれなかった。

実際のところはわからない。

ただ、確実に分かった事は、人を大切にしようとするなら、相手を自分の役割の中へ閉じ込めてはいけない。そして自分自身も、誰かに必要とされる役割だけで生きてはいけないということだ。

喉の痛みは依然あるけれど、寒気はもうほとんどなくなった。明日の月曜日は普通に働けそうだ。

風と行く道

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この記事を書いた人

福祉事業の経営をしてます。①小規模多機能のケアマネ②現場の介助③厨房で料理作り④体操教室など地域ボランティアをしています。
「やってみる」を軸に人生の幅を広げます。ウインドサーフィン・登山・カメラ・バイクはSV650・競馬・FX・株式投資・投資信託などなど。体験を記事にしています。

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