昭和天皇の誕生日4月29日が「みどりの日」でした。
昭和天皇は生物学者だったので4月29日が「みどりの日」だったのですが、4月29日は「昭和の日」になり、「みどりの日」が5月4日になったのでした。
- 4月29日「昭和の日」
- 4月30日
- 5月1日
- 5月2日
- 5月3日「憲法記念日」
- 5月4日「みどりの日」
- 5月5日「こどもの日」
昭和天皇
第124代天皇
- 大日本帝国憲法 第一条 に天皇を君主とする君主制としての天皇。
- 日本国憲法 第一条 に日本国の象徴であり、この地位は日本国民の総意に基づくとする象徴天皇
統治について
君主として
実際は政府が決定したことを承認するといった立場。
象徴として
国政に関わらない。
生涯
皇太子時代
- 11歳で陸海軍少佐になる。
- 東郷平八郎総裁の東宮御学問所に入る。
- 14歳で陸海軍中尉に昇進する。
- 15歳で陸海軍大尉に昇進する。
- 19歳で陸海軍少佐に昇進する。
- 22歳で陸海軍中佐に昇進する。
- 虎ノ門事件で狙撃されるも命中しなかった。
即位
- 昭和3年 田中義一首相を叱責・総辞職
- 昭和7年 桜田門事件 手りゅう弾を投げられ暗殺未遂に合う。
- 昭和8年 継宮明人親王(第125代天皇)が誕生する。
第二次世界大戦
- 昭和11年 二・二六事件
日本のクーデター未遂事件。陸軍青年将校が1483名を率いて政府要人を襲撃。この時に陸軍大将が擁護した発言に昭和天皇が怒り、反乱軍として鎮圧しろと指示した。
「君臨すれども統治せず」といった立憲君主(君主の権力が憲法で制限される)の立場を超えた事件ともいえる。
- 昭和12年 日中戦争
- 昭和16年 開戦に前向きな決意
フランクリン・ルーズベルト大統領から「平和を志向し関係改善を目指す」と親電が真珠湾攻撃の15時間前に届いている。昭和天皇の元に届いたのは真珠湾攻撃の20分前。
大日本帝国陸軍参謀本部通信課(戸村盛男)が、「もう今さら親電を届けても返って現場が混乱するし、10時間ほど遅らせる事にした。それで陛下も決心を変えずに済むし、敵を急襲することができると考えた」と証言している。
- 昭和16年 アメリカ・イギリスへ宣戦布告 大東亜戦争
- 昭和20年 ポツダム宣言を受諾(終戦)
宮内省の田中清玄が昭和天皇に「昭和16年12月8日の回線には、陛下は反対でいらっしゃった。どうしてあれをお止めにならなかったのですか?」と尋ねた。それに対して昭和天皇は「私は立憲君主であって、先制君主ではない。臣下が決議したことを拒む事は出来ない。憲法の規定もそうだ。」と回答したという。
- 昭和20年 在日アメリカ合衆国大使館を訪問しマッカーサーと会見
この時の写真が新聞に掲載せれた。天皇が正装で直立不動でいるのに対し、一国の長ですらないマッカーサーが略式軍服で腰に手をあてたリラックスした態度であることに国民は衝撃を受けた。
マッカーサーは天皇が命乞いをしにやってきたのだと思った。しかし天皇からは極東国際軍事裁判に被告人として臨む覚悟があると伝えた。天皇の態度に感動を覚えたという。
象徴天皇として
- 昭和21年 人間宣言
- 昭和22年 日本国憲法を施行「日本国の象徴であり日本国統合の象徴」
- 戦災地復興視察 全国を行幸
「東北の農業は夏にかかっている」と民情を心得た選択をして、夏に行幸した。
戦前の昭和天皇は国民との接触はなく、公開される写真や映像は、大礼服や軍服がほとんどだった。行幸で国民と触れ合う機会をつくった。
- 昭和27年 平和条約(サンフランシスコ講和条約)で主権を回復
連合国と日本の戦争状態が終結した。ソ連はアメリカ駐留に反対し講和条約には署名しなかった。
昭和天皇
相撲好きであった。51回も国技館に相撲を見に行っている。「少年時代に相撲をして手を覚えている。だから観戦するときも非常におもしろい」と語っている。
5月4日 今日は何の日?
みどりの日
みどりの日は4月29日でした。
昭和天皇の誕生日が「みどりの日」
理由は昭和天皇が生物学者だったから。
4月29日は昭和の日となったため5月4日に移動した。
毎日新聞
この日は青色の毎日新聞が緑になる。