抹茶新茶の日

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抹茶の歴史

抹茶の歴史を遡ると、だいたい8世紀から9世紀。中国では唐の時代になります。

この唐の時代に抹茶を飲む習慣ができたということです。

それから宋の時代に入り、禅僧が儀式で用いるようになります。

日本への伝来

日本への伝来は1191年。禅僧の宋西が日本へ持ち込み、健康効果を説きながら、日本に茶文化を広めていきます。

鎌倉時代・室町時代

鎌倉室町時代になると、貴族や武士の間でお茶の文化が流行り、茶の産地や種類を当てる遊び闘茶というもので、社交の場としてお茶の文化が花開くことになります。

また、村田珠光が茶を確立する。わびとは、簡素で不完全なものの中に美しさを見いだす精神性であり、これが千利休へ受け継がれていくことになる。

戦国・安土桃山時代

戦国時代には、権力を持つ武将たちの領地争いが激化し、茶の道具も武勲を立てた武将への褒美として用いられることになってくる。

その中で、各々の力の権威を現れとして、お茶の世界はどんどん派手になっていく。

そこに現れたのが千利休。

当時のきらびやか、華やかさ、これらを排除し、わびさびの精神でもって茶道の完成を見た。

わびとは、失踪であり不完全の中にある美しさを言う。

さびとは、古びたものに宿る風情である。

また一期一会という理念も組み込まれ、もてなすものと客人が茶室の中で心を通い合わせ、互いを尊重する空間として位置付けたのも茶の世界の独特な考え方であった。

茶室に入る低い入り口は、地位や身分を捨て茶会では互いに平等対等に接することになる。

秀吉との確執

そういったところに頭角を現したのが織田信長の家来であった豊臣秀吉である。

豊臣秀吉は農民の出身で、藤吉郎と呼ばれていたが、織田信長に家臣として取り立てられて、羽柴秀吉と名を改めた。そこから本能寺の織田信長が暗殺されてから、天下人として成り上がり豊臣秀吉として関白の地位につくことになる。

秀吉は何事も派手を好み、彼のたゆまぬ権力思考は、千利休のそれとは相反した。

また千利休が寄贈したものに、京都にある大徳寺。ここの大門に自身の木像を祀ったのであった。

その門をくぐるには千利休の下をくぐらねばならず、天下人秀吉は千利休の下を通って、大徳寺に入ることになった。

また、千利休は茶人として多くの人脈を持っており、武将、商人、貴族、多くの身分のものに対して影響力を持っていた。これが秀吉にとって自分の地位を揺るがすほどの政治力を持った千利休として、危険を感じる人物だったのかもしれない。

加えて、千利休は堺出身で経済的にも自立しており、秀吉に取りいらなくてもよかった。これが千利休の信念を曲げないということに繋がった。

ついに豊臣秀吉は、千利休に切腹を命じることになる。明確な罪状などなかった。単にひれ伏さない千利休が面白くなかったのかもしれない。自分の思い通りにならない千利休に対して、感情的になり切腹を命じたのであった。

それでも千利休は命乞いをするでもなく、秀吉に屈することなく、静かに説得を受け入れたのであった。

享年70歳。1591年のことであった。

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この記事を書いた人

福祉事業の経営をしてます。①小規模多機能のケアマネ②現場の介助③厨房で料理作り④体操教室など地域ボランティアをしています。
「やってみる」を軸に人生の幅を広げます。ウインドサーフィン・登山・カメラ・バイクはSV650・競馬・FX・株式投資・投資信託などなど。体験を記事にしています。

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