1983年(昭和58年)株式会社光栄マイコンシステムが第1作目となるコンピュータシミュレーションゲーム『信長の野望』を発売した。
戦国時代を舞台に天下統一を目指すゲーム。
織田信長について
生まれ
織田信長は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将です。那古屋城で1534年5月12日に生まれました。尾張国(現在の愛知県)織田信秀の嫡男です。
那古屋城を譲られて城主となっている。奇天烈な行動が多く周囲からは「大うつけ」と呼ばれた。
結婚と家督争い
1548年、斎藤道三との和議のため、濃姫との政略結婚が交わされる。
織田信秀の晩年に今川義元との和睦に反対した。これが信長の後継者の資質に疑問符がもたれて弟の信行との家督分割する考えをもち、それが後の家督争いへの火種になる。
尾張統一
1553年、信長の宿老である平手正秀が自害。同年、正徳寺にて斎藤道三と会見。うつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いた。
盟友となった斎藤道三と信長であったが、斎藤道三の子の斎藤義龍の裏切りにより斎藤道三は自害。援軍に駆け付けた信長は、道三の死を知らされ、信長自らが殿をしつつ退却した。
後ろ盾を失った信長に、柴田勝家らが弟信行について挙兵。両者は激突するが信長勝利に終わる。捉えられた弟の信行は母の仲介で罷免となった。
1558年、再び謀反を企てた信行だったが、見限った柴田勝家からの密告で事態を悟った信長は、病気と偽り、見舞いに来た信行を暗殺する。
ここで家督争いが終わり、尾張一国を治めるようになった。
桶狭間の戦い
1560年、今川義元が大軍(1万~4万5000)尾張国へ侵攻した。対する信長の軍勢は数千人程度。信長は今川軍の陣へ急襲する形で義元を打ち取った。
桶狭間の戦いで今川義元を破り、松平元康(後の徳川家康)と清州同盟を結び、互いに背後の守りを固めた。加えて武田信玄とも両国の境界を接することになったので同盟を結び、養女を嫁がせた。朝倉とも同盟を結び、妹(お市)を嫁がせている。これで美濃斎藤家は、浅井家・武田家と挟まれることになる。
その後、稲葉山城の戦いにて美濃の斎藤家を打ち破り、尾張・美濃の2国を治める大名となりました。
上洛
室町幕府の再興を目指し「天下布武」の印を使用することになります。そして足利義昭を奉じて上洛し、京から三好三人衆を追い出して、室町幕府再興を果たします。
当初、信長は室町幕府との連合政権を築いて天下泰平を目指しましたが、敵対勢力が多く苦しい戦いを強いられます。
- 越前の朝倉家
- 近江の浅井家
- 三好三人衆
- 比叡山延暦寺・石山本願寺
信長包囲網と室町幕府の滅亡
1971年に比叡山を焼き討ちし、将軍足利義昭は信長を見限る。
将軍の名の下に「信長討つべし」の号令を諸大名に発して「信長包囲網」が作られます。
- 畿内の諸大名(三好・六角・朝倉家)
- 宗教勢力(本願寺・延暦寺)
- 織田家と同盟関係にあった朝倉家
- 武田信玄
室町幕府と敵対するようになってしまうが、武田信玄の病死から武田軍は引き上げて、足利義昭を京から追放し、事実上ここで室町幕府は滅亡する。
勢力拡大
次に敵対勢力の浅井・朝倉家を滅亡させ、三好家を滅ぼし、長篠の戦いで武田信玄に代わって後を継いだ武田勝頼を、鉄砲隊で撃破して、室町幕府に代わって新政権の構築に乗り出した。
長きに続いた石山本願寺も滅ぼし、京にて大規模な御馬揃えを行い権威を天下に誇示した。
本能寺の変
武田家を滅ぼし東国の多くの国々を従属させた。その後、長曾我部元親を倒すべく四国攻め、毛利家の攻略のため中国地方へ進軍していった。
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)からの援軍要請に、織田信長自身も進軍準備に入っていた矢先に、重臣の明智光秀の謀反により、京の本能寺で自害に追い込まれた。