8月6日「広島平和記念日」

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍のB29爆撃機エノラ・ゲイが、広島市上空約9600メートルで世界初の原子爆弾リトルボーイを投下し、上空約600メートルで爆発した。

目次

マンハッタン計画

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツが原子爆弾の開発をしていた。焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した計画がはじまった。

アインシュタイン

アメリカ合衆国へ亡命したユダヤ人物理学者アルベルト・アインシュタインがフランクリン・ルーズベルト大統領に手紙を送っている。

「核爆弾は飛行機で運ぶには重過ぎるので船で運んで港湾ごと爆破することになる。アメリカで連鎖反応を研究している物理学者グループからなる諮問機関をつくるのがいい」

トルーマン大統領

ルーズベルト大統領が戦争中に1945年4月12日に急死した。トルーマンは副大統領は大統領に昇格した。トルーマンはルーズベルト大統領に1回しか会っておらず戦争の事は何も知らされていなかった。そんな中での就任。

「私の肩にアメリカのトップとしての重荷がのしかかってきた。第一私は戦争の詳細について聞かされていないし、外交にもまだ自信が無い。軍が私をどう見ているのか心配だ。」

第二次世界大戦をどう終わらせるか

ナチスドイツが降伏間近で、アジア・太平洋戦線でも連合国軍が日本を追い詰めていた。トルーマンは戦争をどう終わらせるか舵取りが求められていた。

  • 新型爆弾(原子爆弾)の開発状況の報告を受ける。
  • 戦争終結に向けての調整で原爆まで気がまわらない。
  • ポツダム宣言に向けて調整。
  • ソ連抜きで戦争に勝利したい意図があった。

原爆投下までのかけひき

国務長官バーンズ
ソ連をけん制するた原爆の使用を強く大統領に進言した。

ジョン・マックロイ陸軍次官
「一発で都市を吹っ飛ばせる兵器を我々アメリカが所有していることを事前警告すべきである。それでも降伏しなければ原爆を投下すると日本政府に伝えるべきだ」と主張し、無警告の原爆投下に反対する。

国務長官バーンズ
「それはアメリカの弱さを示すものだ、原爆投下前に天皇制を保証し降伏を呼びかけるのは反対だ」

大日本帝国政府はソ連に和平の仲介を依頼する方向で調整していた。トルーマン大統領は、大日本帝国政府が和平の動きに出たことを知っていた。

アメリカ陸海空軍参謀本部
・ソ連が参戦する予定である。
・天皇制存続を認めれば日本の降伏する。
・日本は既に壊滅状態で原爆を使う必要は無い。警告だけで十分に効果がある。

しかしトルーマンは、その結論を信用しなかった。

国務長官バーンズ
・原爆の力を使えば、ソ連参戦前に日本を降伏させることが出来る。
・原爆でソ連をけん制できる。
・日本が降伏したら原爆投下の機会をのがしてしまう。

国務長官バーンズ
そこで「降伏条件の緩和(天皇制の保障)で日本の降伏を促進する」という路線については「原爆投下までは棚上げすべし」とトルーマンに説き伏せた。

トルーマン政権は分裂

  • 「降伏条件を緩和(天皇制の保障)することで、日本の降伏を促進すべし」
  • 「原爆を投下し、その威力を示すまでは、降伏条件を緩和すべきでない」

トルーマン大統領は、ポツダム宣言に天皇制の存置を保証する一文を入れる提案を受け入れなかった。

トルーマンはソ連が対日宣戦布告すると聞かされて「戦争はこれで一年以内に終わるであろう」と安堵の気持ちを述べていた。しかし、トルーマンは7月16日のトリニティ実験の詳細結果を聞いたときに態度を一変し、ソ連に対して強硬路線を取るようになった。
トルーマンは戦争後のソ連の東ヨーロッパの覇権を狙っている事と、日本の領土を占領する事に気がついて、ソ連に対して強硬路線を取るようになる。

スティムソン陸軍長官がトルーマンの元を訪ね、京都を原子爆弾投下の目標から外すように言ってきた。スティムソンは、かつて京都を2度訪れたことがあり、原爆を投下すれば数多くの一般市民が犠牲になること、そして文化的・宗教的重要性から日本人の恨みを買い戦後政策に影響を及ぼしかねないことを知っていた。

トルーマンの7月25日の日記には「原爆の投下場所は軍事基地のみに限る」と書いてあった。

目標選定書に最初に書かれていたのが広島で、そこには広島は軍事基地であると書いてあった。トルーマンは広島について調べる暇が無かった為、京都と広島を勝手に拡大解釈し、広島に多くの一般市民はいないと思い込んでしまった。

この原爆の日本への使用については、後に共和党の大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の陸軍・海軍の将軍たち(マッカーサーも含む。)は全員が反対意見を具申している。アイゼンハワーに至ってはスティムソン陸軍長官に対し、「アメリカが世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを私は見たくない」(1963年の回想録)と何度も激しく抗議していた。

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この記事を書いた人

福祉事業の経営をしてます。①小規模多機能のケアマネ②現場の介助③厨房で料理作り④体操教室など地域ボランティアをしています。
「やってみる」を軸に人生の幅を広げます。ウインドサーフィン・登山・カメラ・バイクはSV650・競馬・FX・株式投資・投資信託などなど。体験を記事にしています。

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