1612年 宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した日です。
宮本武蔵
江戸時代の初期の剣術家。岡山県の美作市が宮本武蔵生誕の地としていることから岡山県で生まれたという説が有力。他には播磨(兵庫県)で生まれたという説もある。
二天一流兵法の開祖で「五輪書」には13歳から29歳までの60以上の勝負に無敗であると書かれている。
関ヶ原の戦いでは、黒田官兵衛(後の黒田如水)に仕官していた父と共に、九州で東軍として戦ったようだ。
巌流島の決闘
いつ頃に決闘が行われたのかは所説がある。1600年頃の十代に決闘したという説もあれば、1612年頃だという説もあるが、どの説も決定打がないため、一応は慶長17年(1612年)4月13日となっている。
この決闘の最古の記録書である「小倉碑文」によると以下のような内容。
4月13日 今日は何の日?
決闘の日
慶長17年(1612年)
宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した日です。
場所は巌流島。
今の下関あたりの無人島
決闘の模様をチャットGTPで物語にしてみると
宮本武蔵は武者修行をして世界をめぐる60戦無敗の伝説的な剣豪。年齢は28歳。
佐々木小次郎は18歳のイケメンで地元では負けたことのない若きヒーロー。
宮本武蔵は、剣術の達人として名高い佐々木小次郎に一騎討ちを申し込んだ。小次郎は武蔵の挑戦を受け入れ、決闘の場所として船島を指定した。船島は福岡県北九州市にある小さな島で、後に巌流島と呼ばれるようになる。
決闘の日、武蔵は約束の時間よりも遅れて現れた。小次郎は武蔵の遅刻を侮辱と受け取り、怒りに燃えた。武蔵は船から降りると、自分の刀ではなく、漕ぎ棒を剣に見立てて小次郎に向かっていった。小次郎は自分の愛刀である長刀・九字兼定を抜き、武蔵に応戦した。
二人の剣豪は激しく斬り合ったが、武蔵の漕ぎ棒は小次郎の長刀よりも長く、有利に戦えた。武蔵は小次郎の隙をついて、漕ぎ棒で小次郎の頭を強打した。小次郎は倒れて動かなくなった。武蔵は勝利を確信し、船に戻って去っていった。
巌流島の決闘は、歴史上最も有名な剣術の対決として語り継がれることになった。
江戸時代の時間
子(鼠)ねずみ :0時
丑(牛)うし :2時
寅(虎)とら :4時
卯(兎)うさぎ :6時
辰(竜)たつ :8時
巳(蛇)み :10時
午(馬)うま :12時
未(羊)ひつじ :14時
申(猿)さる :16時
酉(鳥)とり :18時
戌(犬)いぬ :20時
亥(猪)いのしし:22時