何度も咳をする。そのたびに胸が苦しくなり、酸欠の金魚のように、口をパクパクさせて、このまま死んでしまうんではないかと不安になる。
風邪で体力は落ちる一方で、体重も3kg ぐらい減っている。ダイエット部のグラフは、僕の体重は一気に減っていて、とても優秀だったが、睡眠不足もたたってもう僕はもう限界が近かった。
高熱は過ぎ去り、寒気もなくなり、咳だけが残った。ここから僕は長い。喘息に移行して、なかなか治りきらないというのが、いつものパターンだ。
そうさせまいと、今回はちゃんと通院を継続する。
人を遠ざけるオーラ
伊川クリニックに着くと受付のいつもの女性がガラス越しに見える。のんべぇの人だ。それしか知らない。のんべぇさんと目が合って、僕は右手を上げた。少しの笑顔を含んで。
ドアを開けてのんべぇさんに言った。「今日はいい天気だね。」っと。するとのんべぇさんはいつものように笑った。外は大雨だったから、ちゃんと冗談は通じたんだろう。横にはいつもと違った女性が座っており、「今日は競馬の人はいないんだね」と言うと、また賑やかな笑いが起こった。
診察室には、僕以外に70代ぐらいの女性が座っていた。診察はまだみたいで、静かに待っている。あまり話をして、賑やかなのも、病人さんには堪えるので、僕は会話を早々に切り上げて待合の隅に座った。
2人の受付の女性の中で、1人はのんべぇさん。もう一人は、たまにいる人でいつも人を拒絶しているような雰囲気を醸し出している。もしかしたら、話せば違う顔を見せてくれるのかもしれないが、人見知りなのだろうか笑顔はない。全く笑わない。そういう女性なのだ。歳の頃から見ると 40代ぐらいだろうか?
彼女から人を遠ざけるようなオーラは、一体どこから出てくるのだろうかと、少し興味を持つ。
診察が終わり、僕は待合に戻ってきた。また隅の席に戻る。のんべぇさんが、パソコンを叩く音が聞こえてくる。医療事務の資格でも持っているのだろうか、今日は9月3日だったから、レセプトは10日までに仕上げなければいけない。1人コツコツとパソコンに向かってデータを入力しているのだろう。
のんべぇさんも、雰囲気がいつもとは硬かった。競馬の人が横にいると、色々とおしゃべりに興じるのだけども、今日は黙って仕事をしている。隣にいる人が、競馬の人ではないために、場の空気が違うのだ。
人は自分は意識しないでも、何かしらの空気を作るもので、その空気には居心地の良さや、緊張感や、心理的安全性や、張り詰めた空気を作る。
今日は、のんべぇさんとの会話の空気よりも、人を遠ざける空気を楽しむように心がけた。笑わない受付女性が僕の名前を呼び、「お会計ができました。」と無機質に言った。僕は立ち上がり、笑わない女性の前に立つ。張り詰めた空気が流れている。この空気をどう壊していこうかっと昔であれば、いじってあの空気をがっつり壊して行ったのだけども、もうそんな無粋なことはしない。笑わない女性の、空気に馴染んでみようと、新しいアプローチを試してみた。
「1090円になります。」というので、「1090円ですか。」と復唱して財布の中の小銭を探した。10円を出し、20円を出し、30円を出し、その間笑わない女性の張り詰めた空気を感じながら、楽しんでいる自分を感じた。そんな僕に気がついたのか、のんべぇさんを見ると僕とマスク越しにでも笑っているのがわかった。
「何をお笑いになっているのですか?」とツッコもうと思ったが、ここで突っ込んで笑いが出てしまったら、いつもの雰囲気で終わってしまう。今日のお楽しみは、笑わない女性の世界観を旅することだ。感性をフル活動させて、笑わない女性の世界観を感じよう。そう気持ちを切り替えた。
40円を出し、50円を出し、そして僕は笑わない女性の目を見て、「90円はありませんでした。大きいのでいいですか。大きすぎてもいいですか?」と言って、2つ折りにした1万円をゆっくりと財布から出した。
笑わない女性は、少し表情を緩めて、「別に構いませんよ。」と言った。その表情は、笑わない女性の表情ではなかったけども、すぐに表情を引き締めて、やっぱり笑わない女性に戻って行った。
なるほど・・・。と僕は思った。どうやら笑わない女性は、笑わないことで自分自身を見せるのを守っているのだろうと感じた。もしかしたら、信頼した人には、もしくは好きな人には、目いっぱいの笑顔を見せるのだろう。いわゆるツンデレというやつだ。
会計を済ませて「お大事にしてください」と言われたが、やっぱり笑ってはいなかった。患者に対しては、ベッドサイドマナーというのがある。不安を取り除くためのマナーだ。彼女にとっては、ベッドサイドマナーとう言葉は存在しない。しかも「お大事にしてください」と行って笑わない表情は、逆にアンバランスで可笑しく感じた。
僕はそんなアンバランスな空気を受け取ったまま、のんべぇさんがクスクスと笑っているのを横目に、「お大事にします」と軽く会釈をした。
なんだかとても楽しい時間だった。
空に向かって
薬局に向かうと、いつもの薬剤師はいなくて、誰も知らない人だった。いつもは3人いるが、今日は2人体制で、てこまいをしている。もしかしたら誰かが欠勤して、他の店舗から応援を回されたのかもしれない。
「これお願いします。」と言って処方箋を渡したが、「分かりました」というだけで、今日はどうされましたかとか、このところ最近通院が多いですねとか、小説ははかどってますかとか、そんな会話は一切なかった。
僕は待合の席に座り、スマホを取り出して、たわいない情報を眺めて過ごした。芥川賞のゾンビ回収婦を持ってはいたが、今は読む気がしなかった。
時間がかかっていた。2名体制だから仕方がないだろう。やっと僕の名前が呼ばれ、受け取り口の方へ行くと、薬の説明が始まった。薬の説明をする女性は、背が低くて、ぽっちゃりしていた。痩せる体質ではないだろう。骨格から小さめの中くらいの太めといった体格の女性だ。顔には吹き出物が出ている。マスクで隠れてはいるが、なんだかストレスで胃腸を壊していそうな女性だった。
「咳止めの薬が、この3つです。このピンクの薬と、この白の薬は初めて処方されています。」と言ったので、「そうそう。このピンクの薬は初めて見たよ。」と言っただけなのに、吹き出物の女性は言葉に笑いが滲んできた。
「ピンクがどうかしましたか?」と僕は、すかさず吹き出物の女性の放つ、ラフで気兼ねのない空気に沿って、言葉を置いたら、「いえ、なにも、ピンクのクスリです。」と言った。
うん?
吹き出物の女性は続ける。「この吸入器は初めてですかね?」というから、「うがいをするやつですよね」というと、「吸入器は全部うがいをしますけども・・・」言葉を詰まらせた。
うん?うん?
「これの使い方ですが、2回ほどこうして」と実際に使うようなジェスチャーを見せたので、「空打ち(からうち)するんですね」と先回りして言葉を置くと「そ、、そうです。カラ・・・空打ちです。」と慌てて復唱する。
先ほどから聞いていると、この吹き出物の女性は、どうやら語彙力が足らぬらしい。しかも患者に薬の説明を求められるのでもなく、ピンクとか、薬とはほとんど関係のない話をぶち込まれて会話の歯車が合わない様子だった。
「空打ち(からうち)を2回、空(そら)にしてください。」と言って、自分でもおかしな表現だと思ったのか、言い直そうとしたが、適切な言葉が見つからず「空(そら)にしてください。」と同じ言葉でもう一度いった。
空打ち(からうち)を空(そら)にするという表現がとても面白く、「空(そら)にするんですか。そうですか」と溜めてから、。でアムロがガンダムで乗って言うように、気持ちを込めて「宇宙に・・・」と言った。もちろん、発音はソラニだ。
会話数は少ないが、会話と会話の行間とでもいおうか、間とでもいおうか、そこにはその人らしい空気が漂っていて、それを感じて丁寧にすくい上げるだけで会話の厚みが増すというか、その人を感じれるというか、そんな会話はとても面白い。
感性のある人は、その人との会話の中で、空気感を共有できたりするし、こちらが感じてるのも分かって、相手もそれを面白がって、のんべぇさんのようにクスクスと笑っていたりする。
会話とは、答えがあるものだと思っていた。だから、理路整然と突き詰めて話をしていけば、分かり合えるものだと思っていた。
会話とは、答えのないその場限りの会話であったとしても、そこに話す相手との空気が感じられる。その会話を感じることができれば、答えにたどり着かなかったとしても、意味があったりする。
最近そういった会話を楽しむことが多い。
そして、答えを探さない会話が関係を育ててゆくのだと実感してきた。
