見守るということ
僕は、疲れていた。
ずっと仕事、仕事で緊張していたからだ。
スタッフが足りないのだから僕が休む訳にはいかない。

僕がスタッフを導かないと
余裕がないときほど、暴力に繋がることを僕は学んだ。
だからこそ、いまの自分には一番気をつけなければならないと思っている。
スタッフとの話のなかで、



「主任は2日ほど、自然の中でゆっくりしてきたほうがいいですよ」
そんな言葉をもらった。
今日はその土曜日。
「ゆっくり休んできてください」と送り出された。
僕はいま、こうしてブログを書きながら、自分の心を整えている。
暗く長いトンネルの先に
2019年の8月、僕は夫でもなく父親でもなくなった。
その喪失感と痛みは深く、うつのような症状も出た。
暗いトンネルのなかを、長いあいだ歩いていた。
役割を失って、
「自分はいったい何者なのだろう」と問い続ける時間が、
いまもどこかで続いている。
それでも、「自分のために生きよう」と少しずつ軸を作り、
気づけば、再び“父親”という役割が戻ってきた。
ただ、昔とは違う。
父親は、子に責任で干渉する存在ではない。
自由と尊重が、自立と結びつく――
見守ることが、支えることになっていく。
そう理解できてから、
長いトンネルの先に、ようやく光を見つけた気がした。
相手の求めている事を想像する
想像でしかないが、
息子が巣立ったあとの元妻の痛みや悲しみは、
あの2019年に僕が味わった感情に近いのかもしれない。
だから心配になる。
寄り添える準備も、自分を保てる自信も、いまはある。
けれど、救える距離に彼女はいない。
ここで手を伸ばせば、
たぶん彼女には恐怖として届いてしまう。
それは安心でも安全でもない。
だから、彼女が自分の力で立ち上がるのを、
信じて待つしかない。
ん?
ここまで書いて気づいた。
息子の自立もまた、息子のペースを尊重して見守っている。
そして息子は確実に着実に前に進んでいる。僕の知らないところで、自分らしさや自分の居場所をみつけているようだ。
今の僕が出来ることは
息子の生きる力を信じて待つという選択をする。
そうか――
これでいいのかもしれない。
彼女にも彼女のペースがある。
そのリズムを尊重して、見守ればいい。
それが、いちばん良いことなのかもしれない。
なんだ。そういう事か。これで良いのかどうなんだろうかと思い悩んでいたが、今出来る事はただ静かに存在することだけなんだな。