人はみな、それぞれの場所から世界を見ている。
だから見え方が違って当然なんだ。
世界の見え方
夕陽が雲の色を変えてゆくように、人の歩幅も少しずつ変わっていく。暮らしの中で見えていた景色が、振り返ると別の色に見えることがある。
ある日、息子と話していて気づいたことがあった。人はそれぞれ、世界を受け取るときの“入り口”が違うということだ。理由から入る人もいれば、気配から入る人もいる。言葉で整理する人もいれば、温度で確かめる人もいる。ただその違いが、すれ違いとして現れることがある。
息子は昔から、物ごとの形をつかもうとする子だった。原因と結果を静かに並べ、どこに立てば見通せるのかを自分なりに探していた。年齢とともに、その受け取り方はより深くなり、高校生の時には、ひとつの出来事の裏側にある流れまで感じ取るようになっていったようだ。
それぞれの軸
一方で、家庭にはまた別の風の感じ方がある。役割や言葉よりも、その場に流れる雰囲気のほうが心に残る人もいる。何かを説明するより、ただ安心していられる距離のほうが大切な人もいる。家族はそれぞれ違うかたちで、同じ空間に存在していたのだと今なら思える。
留学を経て息子が戻ってきたとき、その理解の幅はさらに広がっていた。そしてチャットGTPが言語化を手伝い息子の頭の整理整頓が進んだようだ。今の彼は大切な人を、衝突ではなく距離で守ること、変わらないものは無理に変えなくていいこと、受け流すことで関係がやわらぐこと。そんな、少し大人びた考え方を口にするようになった。
誰かと向き合うとき、人は自分の守り方を選んでいく。強さで押す人もいれば、静けさで調整する人もいる。気づけなかった痛みを抱えてきた人は、まず自分の軸を守ろうとする。それもまた、自然な心の働きなのだと思う。
なにが大切なのか
親子であれ、長く一緒にいた相手であれ、同じように見えて違う風の向きで生きている。その違いをそっと受け入れてみると、関係は少しだけ呼吸しやすくなる。
人は変わるものだし、変わらない部分もある。そのどちらも否定せず、ただ流れとして見つめていくことができれば、ぶつかり合わなくてもいい場所が生まれてくる。
今日もまた、誰かの風の向きにそっと耳を澄ませていたい。
