息子の「空間建築」を前に、立ち止まった日
息子が作ったわけのわからん構造物を見ていた。
一本だけ高く伸びた柱と、その周囲に散らばる低い柱たち。
建築なのか、彫刻なのか、それともただの遊びなのか──
最初はまったく、何がしたいのか見えてこなかった。

息子「これが一番高い。で、これが一番低い。だから比べられないし同化するんだよ」
そう言われて、僕はますます分からなくなった。
比べられないから同化する…?



高さなんだから比べられるじゃん・・・
なんだそれ、と思いながらも、息子の目があまりに真っ直ぐで、問い返すこともできなかった。
そして今、息子がアートだと言い張ったこのわけのわからん構造物を眺めている。


「理解しよう」とすることの違和感
息子が作るものには、説明がない。
そこには設計図もなく、過程も語られず、ただ形だけが現れる。
それは「作品」というよりも、内側にずっとあった感性の断片みたいだった。


見せたい、というより、感じたままのカタチ。
そんなふうに感じる。
そして今、僕はいつもの癖で、理解できるものに言語化しようと試みていた。
理解できない、わからないことによって生まれるモヤモヤは、ずっと僕の頭を混乱させた。
自分の知ってる地図に、彼の発想がどの位置にあるのかわからない。
わからない事は誰しも拒否として反応する。
そうか。わからないから見たくないという反応になるんだな。
わからないから理解しようと苦しんでいるんだな。
そこに気づいた瞬間、少し肩の力が抜けた。
「わかるだろ?」の奥にあるもの
息子はときどき言う。
「わかるだろ?」
「なんでわからんの?」
その言葉に、僕はどこか試されているような気がしていた。
わからなきゃダメなのか、と焦る気持ちもあった。
でも本当は──
それは説明ができないだけの世界を、
ただ誰かと共有したいという気持ちだったのかもしれない。
まだ言葉が追いついていないだけで、
「伝えたい」気持ちはちゃんとある。
そのことに気づいてから、僕の中の緊張が少しほぐれた。
無理に理解しようとしなくていい。
ただそばにいて、「そうか、お前の世界はそうなんだな」と受け止めること。
それだけで良いんじゃないか?
今はそう思っている・・・
「なるほどなぁ」でよかった
息子の空間美は、僕にはやっぱり難しい。
でも今はもうふっとこの言葉がでる。
「なるほどなぁ。お前の世界はそれが美なんだな」
説明じゃなく、理解でもなく。
ただ、それをそのまま受け取っただけ。
息子は、それで十分だったみたいだった。
もしかしたら僕の言葉じゃなくて、同じものをみて感じる事が大切なのかもしれない。
僕にできること
父親として、何をしてやれるんだろう。
導くこと?理解すること?
そうじゃなくて、ただそばにいて、彼の中から出てきた世界をそっと受け取る。
「わからないけど、お前にはそう見えてるんだな」と思うこと。
その距離感が、たぶんいちばんお互いに自然体でいれる。
分からないものを、分からないままに置いておく。
それだけで彼が見えるのかもしれない。






