不安は生命の揺らぎみたいなもので
生きている実感が安心を呼ぶわけだ
つまり不安も安心も同じってことだな
言葉になる前の感覚をすくい上げて
山の空気は、やはり冷たい。
12月に入ったばかりの剣山(つるぎさん)は、見た目こそ穏やかだったけれど、そこには確かに冬がいた。
今日は息子と、登山の予定だった。
「今年は暖冬だから大丈夫だろう」と高を括って車を走らせたけれど、山道に入ると、ちらほらと雪が舞っていた。
嫌な予感がした。
でも、ここまで来て引き返すのもな…と、気持ちのどこかで強がっていたように思う。
登山口まであと30分というところで、問題は起きた。
日陰のヘアピンカーブ、ほんの数メートルに雪が残っていた。そこを越えれば、あとちょっとで登山口だ。そう思ってアクセルを踏んだ瞬間、タイヤが空回りして、車が横滑りしはじめた。
ガードレールはなかった。
ほんの少しの角度の違いで、あのまま車は下へ横転してていたかもしれない。
背中を冷たいものが一気に駆け抜けた。
死の感覚──言葉にならない感覚が押し寄せてきた。
息子と顔を見合わせた瞬間、その空間にただ「生きている」という実感だけが残った。
しばらく、どう車を動かせばいいのか、わからなかった。
恐る恐るギアーをバックに入れて、雪のない路面へタイヤを移動させた。
結局、山を登るのは諦めた。
なんとか車の向きを変えれるスペースを見つけて無事に山を降りる。
命がある。それだけで充分だった。
美術館で「言葉の前」を探す
予定を変更して、息子と大塚国際美術館へ向かった。
「空間美」とか「世界観」とか、彼がそんな言葉を口にするので、どこまで感性が研ぎ澄まされているのか、確かめたくなった。
今日は「感じる」ことを大切にしようと思った。
死を身近に感じたせいかもしれない。
あの背中に押し寄せたものの正体を、感性という目で見つけ直したくなった。
理解しようとしない。
意味づけをしない。
説明もしない。
ただ、その「手前」に立つ。
それが今日の、僕たちのテーマだった。
ロスコの深みで

グレー、赤、黒の絵の前で、僕は立ち止まった。
和紙のようなムラ。
粗く、柔らかい、色の層。
じっと見ていると、飲み込まれるようだった。
でも、息子が横を歩いた瞬間、空間が変わった。
彼の存在が、作品との間に「距離」を生んだ。
その瞬間、作品にのまれるのではなく、作品と対等でいられる場所ができたような気がした。
これが「空間」というものか──そう思えた。
僕の呼吸でシャッターを切って、僕の空間の作品をつくった。

ポロックの矛盾と融合

白と黒が激しくぶつかる絵。
それなのに、不思議とまとまりを感じた。
衝突しているのに、調和している。
相反するようで、流れの中では一体となっていた。
その時ふと思った。
「矛盾していてもいい。
それも僕自身なんだ」と。
現代美術は感じる事を愉しむなんだな。
意味を解釈しようとすればどんどんわからなくなるんだ。
色の“粘度”が心に触れる

青とか緑とかはビニールテープみたいで剥がせそうなのに
右側のオレンジ色に、妙な粘り気を感じた。
めくれそうで、破れそうで、触れたらまとわりつくような気配。
これが作品の質感を感じるということか。
僕の胸の中にある“ざわつき”と似ていた。
心の中にある「触れたら危ういもの」って誰にでもある。
そこにそっと目を向けるだけで、それはもう十分なのかもしれない。
それ以上でも以下でもない。
無理に扱わないこと。
感じておくだけでいい。
それもまた、人との距離感なのだと感じた。
ライカー副長(これ後で説明するね)
個性の渦と「違う自分」


複雑な色や形が混在した一枚の絵。
全てバラバラに見えるのに、一つの世界として成立している。
何も考えず、意味を求めず、見たいように感じたいように
心を遊ばせていると、いろんなヒーローがいるように見えてきた。
僕の中にも、こんなにたくさんの“違う自分”がいるのかもしれない。
無理に一つにしようとせず、そのままを受け入れたら、ふっと呼吸が軽くなった。



いろんな自分がいてもいいじゃないか。
微妙なズレの美しさ


アンディー・ウォーホルの反復作品。
同じに見えて全部違う。
そのズレにこそ「リアル」がある。
完璧じゃないからこそ、生きている。
コンピューターのように正確は人の湿気がない。
自分の未完成の部分も受け入れる。
足らずが美しい。そんなわびさびだ。



その言葉が、今日の僕にはいちばん深く残ったかもしれない。
息子と、言葉になる前の世界へ
今日という日は、たくさんの「感覚」と出会った。
命の危機、感性、空間、現代美術。
すべてが「言葉になる前」の揺らぎを含んでいた。
それを自分の心に沸き立つもので感じる。
息子に言わせれば宇宙だ。
自分と言う宇宙に向き合い、どんな変化や揺らぎがあるのか?
言葉でひろわず感じたままを表現する。
感じたままをそっとすくい上げる。
息子の感性を見つめながら、僕自身も、そこに寄り添うように歩いた一日だった。
今はまだ、それが何になるのか、わからない。
ただ、美術館を歩きながら、胸の奥にひとつだけ
静かに浮かび上がってきた感覚があった。
息子の鋭い感性は、きっと母から受け継いだものだ。
そう思ったとき、心の深いところがかすかに揺れた。
それは今日突然生まれた揺れじゃない。
ずっと前から、乾ききらずに残っている“粘度”のような層。
触れれば、きっと指先にまとわりついて離れない。
色も形も言葉にもならないけれど、
たしかにそこに在りつづけているもの。
ただ、それに触れないほうがいいのはわかっている。
触れれば広がる。
触れれば沈む。
触れれば、いまの自分の輪郭がにじむ。
だから、触れずに感じておくだけにとどめておく。
いつかその粘度が自然に剥がれる日が来るなら、
その時にまた、そっと向き合えばいい。
今はただ、そこにあるという事実だけを
静かに認めておけばいいのだと思う。
息子が教えてくれた感性で今日を生きた。
そして「感じた」。
それだけで十分だ。
いやぁ、本当に生きてて良かった…。








