僕たちは性を遠ざける時代に生きている
まじめな話、いまの時代って性に対して異常なほど距離を取る傾向があると思うんですよね。
ちょっと前なら何気ない会話だった「髪型変えた?」とか「今日の服、似合ってるね」なんて言葉ですら、職場で口に出したらセクハラと取られかねない。ましてや女性の体形について触れるなんて、絶対にアウト。下手をすれば社会的に罰を受けるほどのリスクになります。
これはつまり、性にまつわるあらゆる言動が、誤解された瞬間に“加害”へと転化してしまうということです。
性におおらかだった日本人
かつて日本には、性をもっと自然に受け止める文化があったんですよね。江戸時代なんかは特にそうで、春画に代表されるように、性というものを恥ずかしいものではなく、人間らしい営みとして、そして時にはユーモアや芸術として昇華させていました。
国家の教育方針による性の排除
それが、明治時代に入ってから一変します。西洋化の波が押し寄せ、キリスト教的な道徳観が国家の教育方針に組み込まれるようになったことで、「性=慎ましさ」「純潔=美徳」という価値観が急速に広まったんですね。
戦後になってGHQの占領政策が入り、遊郭文化や春画文化は「野蛮」とされてさらに排除されていきます。結果的に、日本人本来の“性に対するおおらかさ”は忘れられ、代わりに“性に対する緊張感”が深く根づいてしまった。
それが今の社会にまで影響していて、もはやアメリカ以上に“性に厳しい国”になっているんじゃないかと思います。皮肉な話ですが、表現の自由や個人の尊厳を大事にする近代化の中で、実は江戸時代よりもずっと不自由な空気になってしまったということです。
たしかに、性の話を軽率に扱ってはいけません。誰かの境界を踏み越えるような言動が許されるわけではない。でも、過剰な忖度や恐怖心によって、人と人とのあいだに自然な親しさやユーモアまでも失われているのだとしたら、それは本末転倒なんじゃないかと思うんですよね。

この記事なんかが良い事例だと思います。


時代に洗脳されている事を知ったうえでエロを愉しむ
ここで押さえておきたいのは、時代によって教育方針が違い、教育により僕らは価値観を植え付けられているという事です。



教育という名の洗脳です。
社会で生きているから仕方がないのかもしれませんが、僕たちは何かしらの洗脳を施されていて、それに縛られているわけです。キリスト教徒でもないのに、キリスト教の道徳になぜ従わなくてはらないの?
ここで少しの疑問を抱ける人は、洗脳から自由になった人です。自由に自分の人生を愉しむ。教育を妄信することで自分らしさを封じ込まれていると考える事っておかしいですか?
これってとても大切な事だと思うんですよ。
ここからは洗脳から溶けた僕の性への考えなんですが
性というのは、ただの本能ではなくて、つながりだったり、癒しだったり、自己肯定だったり、そういうものの延長にある感覚だと思います。
だから僕は、性を恥じるのではなく、もっと自然に向き合ってもいいと思っています。お互いの合意と敬意さえあれば、それは人生を豊かにしてくれる営みになると思うんです。
江戸時代の春画を見て笑いながら、ちょっとドキッとして、でもどこかホッとする。そんな空気を、僕たちはもう一度取り戻してもいいのかもしれませんね。