忙しさの中にも、
静かな喜びは息づいている。
忙しさの中にある静けさ
月曜日の朝。
例年になく温かい日が続いている。
一陣の風が吹き抜けて、週の始まりを告げていた。
今日という日は、ひさびさに息をつく間もない激務だった。
スタッフ五名、全員が走り回り、気づけば残業三十分。
誰ひとり、コーヒーすら飲む余裕がなかった。
それでも、不思議と心の奥には小さな満ち足りた感覚が残った。
というのも、いまのチームは本当に呼吸が合っている。
誰かが詰まれば、すぐに誰かが動く。
苦しさの中にも、同じ方向を向いて働く安心があった。
人は、力を出し切った日の終わりに、
小さな達成感を胸のどこかに灯すものだ。
目標を達成できなくても、「今日は今日でやりきった」と思える。
その感覚が、また次の日を支えるのだと思う。
暴力について静かに考える
こうして日々に集中していると、
ふと、まったく別のことが頭をよぎる。
それがこの6年ずっと考えていた「暴力」という言葉だった。
暴力と聞くと、多くの人は「攻撃」を思い浮かべる。
けれど実際には、あれは「自分を守ろうとする心の動き」でもある。
誰かの言葉に過敏に反応してしまうとき、
その裏には、自分を守ろうとする必死さがある。
人は、自分を肯定できないときほど、
他人の言葉を跳ね返そうとしてしまう。
「その“はね返し”が、時に言葉の棘となって、
気づかぬうちに誰かを傷つけてしまうこともある。」
自己肯定感を育てる
だからこそ、
僕は「毎日で完結するように生きる」ことを大切にしている。
うまくいった日も、そうでない日も、
一日をまるごと受け入れる。
自分を責めず、次の日に持ち越さない。
そうして少しずつ、
自分を守る必要のない心の状態――
つまり、静かな強さに近づいていける気がする。
登山をしていると、これがよくわかる。
山頂を目指すことばかり考えていると、
登り道のひとつひとつが苦しみに変わっていく。
けれど、足元の土の匂い、鳥のさえずり、
木漏れ日や風の冷たさを感じながら歩くと、
その一歩一歩が喜びに変わっていく。
人生もたぶん、それと同じだ。
誰かになるためではなく、
いまを味わい尽くすように生きる。
その日その瞬間に集中して、
ダンスするようにリズムに身を任せていく。
目標を追う日々よりも、
一歩ずつを味わう日々のほうが、
自分を肯定できる時間が増えていく。
精一杯やり切った自分を褒めてやる
激務の一日を終えた帰り道、
コンビニの明かりがやけにあたたかく見えた。
人はきっと、そんな小さな明かりを見つけながら歩いていくのだろう。
風がまた少し冷たくなった。
それでも今日を越えられたことに、
静かに感謝している。
ハイボールを買って帰ろう。
そんな小さなご褒美が、今日という一日をやさしく締めくくってくれる。
