遅すぎて

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やる気が起きない

僕は、深い深呼吸をついて、天井を見上げて、エアコンの風でうっすらと揺れる釣り下げ電球を眺めていた。デイルームは静けさを取り戻して、庭は電球で照らされて鮮やかな深い緑に染まっていた。緑は白のLEDライトと相性がいいのか、とても鮮やかで気持ちが良かった。

再び深い深呼吸。背中から力が抜ける。もういちど深い深呼吸。吐くときに体の力が抜ける。疲れがにじみでて流れ出す。そんな感覚が気持ちが良い。

しかし、椅子の背もたれに深く身体を預けて、そのまま動くことが出来ない。また深く息を吸い深く吐いた。身体が背もたれに沈み込み目を閉じる。

肩から背中にジトっとした疲労感を感じる。今日はただただ何もする気が起きてこない。腹の底から沸き上がる、あの熱い感じが全くない。

両腕がとても重い。


大寒

今日は、暦でいえば大寒で、一年で一番寒い時期になる。テレビのニュースで「冬将軍がやってきました」っとかわいい戦国武将を形どったキャラクターが、日本列島に表示されていたが、ここ5日ほど大寒波が襲うらしく、明日は0℃予報になっている。

外に出ると刺すような寒さで、まるで冷蔵庫にいるようだった。

暖房は26℃設定して、エアコンが2台動いて、加湿器も2台が白い蒸気を勢いよく吐き出していた。空気は湿気を含み温かく、それでも、なんとも気持ちが重く、身体も鉛のようだった。

これが春先の気持ちのよい気温だったら、バイクで買い物にでも出かけようとなるんだろうけど、こう寒くちゃどこにも行きたくなかった。家に帰ったところで、凍てつく部屋が待っている。温まるまでだいぶ時間がかかるだろう。


塩鯖

デイのお昼ご飯で、炊飯器に白ご飯が余っていたようで、「主任、これ余ったんですけど食べます?」というので、僕はもらうことにしたんだけど、スタッフは「おむすび作りましょうか?」と、独り身の僕の晩飯を気遣ってくれた。だけど、僕は丁寧に調理したいなと思っていたので、炊飯器のまま置いておいて欲しいと言った。

最近は生活を丁寧にしたいなと思っていて、散らかった部屋や、使わなくなったコンロに積みあがった鍋とか、すっかり調理習慣が無くなってしまっている。

使うとしたら、丸テーブルの上に据え置いた、IHコンロぐらいなものだった。といっても、そのIHコンロで調理するものといったら、お鍋ぐらいなものだが。

少し丁寧に生活しないとなと思い出して、塩サバを買ってきていたので、それを魚焼き機で焼いて、ふろふき大根を作り、味噌汁も出汁からとって、食事をしようと思いたったのだった。

僕はサバを取り出して、魚焼き機に並べ、焼き始めた。


昔の自分の生活リズム

これでも、離婚した直後ぐらいは、丁寧に生活していた。

うつ症状の時は、しめ鯖ばかりを食べていて、酸っぱいのを好んで食べていたけど、アルコールも症状を重くしたので、辞めていたし、カロリーをほとんど摂取していないのに、走りにいくもんだから、どんどん痩せていった。

そして、当時は自分の収支を把握できておらず、金がないものと思い込んで、また養育費も支払わないといけなかったので、ただただ節約していて、自分で調理していたわけだった。

まだ投資も覚えていない時期だったし、社会的孤立もしていたから、飲み会もいかなかったし、金を使うところが無かったわけで、まぁそんな感じだった。

それに、自分で調理をしている時って、部屋も不思議とかたずいていた。丁寧に食事を作るということは、生活身の回りのことも整うのかもしれない。

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ひさしぶりに観た。昔の動画が残っているのは、こういう時にありがたいと思う。今では考えられないぐらいにキレイに片付いたキッチンと丸テーブルがそこにあって、そして弱々しい僕がそこにいた。

2020年1月2日だから、DV加害者更生プログラムに行く前の動画で、まだ僕はジェンダー価値観に縛られて、自分が何者かをわかっていなくて、しかも社会的に孤立していて、アイデンティティーも喪失したぐらい。

一番苦しかった時だと思う。

過去の動画を観た時に、あの地獄をよく生きてこれたなぁと感心したし、あの時間を、よく生き延びたなと思う。たぶん君は、僕以上の地獄を歩いていて、そんな君のことを今の僕はすごくわかってしまう。今頃わかったところで遅いんだけど、遅すぎて、ごめんって思う。

自堕落な生活

しかし、今の生活は当時の面影もない。痩せて50㎏になった体重は、見る影もなく、体重計すら乗っていないので、今は何キロになったかわからない。ズボンが再び履けなくなった。

co-opで総菜を買ったり、昨日はフライドチキンのとくとくパック4ピースを、息子のぶんと2セット買った。

階段を登って息子の部屋につくと、部屋に明かりがついてるので起きているのだろうと思って、いつもならドアノブにでも掛けて、lineで送っとくんだけど、フライドチキンが冷めちゃ不味いだろうなと思って、ピンポンを押した。

しばらくすると、息子がドアを開けて「ほーい」といつもの感じで云った。息子は、相変わらず短パンとTシャツで出てきて、この寒いのによくこんなカッコで過ごせるなと、僕はいつも不思議に思うのだけど、フライドチキンを見て「おっ!」と目を見開き、受け取った息子は「ありがとう」と。

会話らしい会話はなく、僕は階段を降りたのだった。

部屋に戻り、シャワーを浴槽に入れて蛇口をひねる。45℃のシャワーが浴槽内に勢いよく流れ出し、とたんに湯気でいっぱいになった。乾燥した部屋に急ごしらえで湿度を上げるには、とても合理的だと思った。これで風呂もためれるんだから。

ミルキーな入浴剤を「ザザァー」と浴槽に入れると、良い香りが蒸気に溶けて部屋中に香りを運んでくれる。一気に、温かい空気に包まれながら、僕はAmazonオーディブルで「シェニール織とか 黄肉のメロンとか」を流して、江國香織の言葉の置き方を耳に入れながら、乳白色に濁ったお湯に身体を浸した。

今夜の晩御飯は、フライドチキンとハイボールだった。そしてAmazonプライムビデオでヒーローアカデミアを観た。

僕は生活が乱れていると思った。


節約

今夜こそは整った食生活にしようと僕は思っていた。アルコールを抜いて、シラフな一日で明日を迎えたいとも思った。スーパーで岩塩ブリを手に取り、これは焼きブリにして食べるとして、お味噌汁用の豆腐とか、ふろふき大根用の「おでん用だいこん」とか、そしてたまごとベーコンと食パンなどを。

そして、今日は息子にブリしゃぶを買った。買い物も圧縮したつもりだったけど、これでも4000円も使ってしまって、なにがいけなかったんだろうと考えても、わからなかった。

昨日の、フライドチキンとくとくパック4ピースを2セット買ったほうが安かった。あれで3000円だから。僕は外食のほうが安いじゃないかと、なんだか割に合わない気がした。


ブリを魚焼き機に入れて、火を入れた。もうこれが今晩の調理の最後の行程になる。味噌汁も、ふろふき大根も、冷ややっこも出来上がっている。

後は、メインデッシュさえ出来れば、丁寧な生活への第一歩だ。出来れば、腹も引っ込めて、スマートな身体を手に入れたいとも思っていた。

そんな事を考えていると、とたんに目がしみてきて、喉がイガイガしはじめた。はたと周囲を見渡すと、蛍光灯付近が真っ白になっていて、その煙は魚焼き機から出ていた。僕は魚を焼くのに集中しすぎて、換気扇を回すのを忘れていたのだった。

慌てて換気扇のスイッチを入れたが、もう遅かった。部屋中に魚の臭いと共に煙が充満していた。

Prototype

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この記事を書いた人

福祉事業の経営をしてます。①小規模多機能のケアマネ②現場の介助③厨房で料理作り④体操教室など地域ボランティアをしています。
「やってみる」を軸に人生の幅を広げます。ウインドサーフィン・登山・カメラ・バイクはSV650・競馬・FX・株式投資・投資信託などなど。体験を記事にしています。

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