息子と寿司屋で話したこと
息子が僕の職場に来て「腹減ったからメシいこう!」と。
自分から誘ってくるなんて珍しいことだったので、少し驚いたが、まあ断る理由もなかったし、せっかくなら何か話したいことがあるのかと思って出かけた。
カウンターに並んで座り、彼はウーロン茶で僕はビールを一杯頼んで、寿司をつまみながら、最初は他愛もない話をしていたけれど、だんだんと息子が自分のことを語り始めた
尖りすぎている息子の想い
彼は、自分の作りたい服について話した。
大衆に広く受け入れられるようなものを目指すつもりはないし、流行に合わせる気もない、自分の生き方そのものを反映させたものを作りたい、そういうスタンスでやっていくつもりだと話していた。
共感してくれる人に届けばそれで十分だと、ある意味で割り切っているようにも見えたし、どこか腹を括ったような表情もしていた。
親の心配
理屈としては理解できた。
けれど、それが現実として成立するのかどうかはまた別の話で、
理想を掲げるのは悪いことじゃないが、生活の基盤がなければ長くは続かない。
だから、「とりあえず保険ぐらいはつけとけ」と言った。
正社員で働いて、雇用保険と社会保険ぐらいは確保しておいたほうがいい、それがあれば最低限の生活は守れるし、ものづくりはそれとは別にやっていけばいいだろうと、特別珍しいことを言ったつもりはなかったけれど、息子の表情はほんの少し曇った。
口にこそ出さなかったが、自信があるように見せていたその裏に、実はまだ実績も何もないということを、本人が一番よくわかっているのだろうと感じた。
それでも、それを振り払うようにして話していたのかもしれない。
自分でも不安を抱えながら、それでも熱を持って進もうとしていることだけは伝わってきたし、それだけでも十分なんじゃないかとも思った。
Z世代
彼は、「Z世代って無気力なやつばっかりやけど、俺は違う」と言った。
「やりたいことがあるってだけで、マシなほうだと思う」とも。
その言葉には、いろんな気持ちが混ざっていたと思う。
- 何かに本気になっている自分を肯定してほしい気持ち
- まだ何者でもない自分を認めてほしい気持ち
たぶん両方あったのだろうと思う。
だから、「チャレンジしてる姿は応援するよ」とだけ伝えた。
その一言だけで、彼の顔がわずかに明るくなったのが分かった。
自分の生き方が、否定されなかったのだと感じたのかもしれない。
自分の生き方が「これでいい」と背中を押してもらいたかったのかもしれない。
娘も同じような想いだろう
そういうやり取りをしながら、ふと、娘のことを思い出した。
息子のように激しく熱を発するような生き方ではないが、あの子もどこかで静かに熱を持っているんじゃないかと思っている。もう6年会っていないが、あのときの性格からすれば、そういう女性に成長しているだろう。
小さい頃から芯が強く、自分の想いを押し通す胆力はもっている。ただ優しすぎて自己犠牲を払うようなところがあるので、僕としては「もっと自分を大切にわがままになってもいい」と思う。それが若さゆえの特権なんだから。良い子にならなくていい。
娘よ。すまん。僕が君に今まで伝えて来た事はすべて間違っていた。
常識なんてものは相対的なもんだと思う。ある時は常識で動き、ある時は自分の信条で動けばいい。
だから常識に縛られすぎるな。
というのが、今のパパの考えだ。
だから自分らしく表現すればいい。
それをパパは応援したい。
子どもたちが受け継いだもの
ふたりとも、たぶん元妻に似たのだと思う。
元妻は、直感で生きているようでいて、実は内面に確かな火を持っていた人だった。
メタ認知(客観性)があり、感情と理性のバランスをしっかりもっていた。
僕にはないものを持っていて、その部分を子どもたちはしっかり受け継いでいるように思う。
僕は、保守的に生きてきた人間で、激しく何かに打ち込むような生き方はしてこなかったけれど、離婚してから少しずつ、レールの外側を歩くような生き方に変わってきたように思う。
それは計画してそうなったわけでもないし、望んだ形かと言われればよくわからないけれど、少なくとも、いま僕は自分なりに考えながら生きているつもりだ。
相手の目線に立つ
元妻はスピリチュアルなものを大切にしていた。シンクなどの水場には水晶が置かれ、玄関には黄色のものが置かれて、定期的に四柱推命の鑑定をしているようだった。
元妻の考え方を理解したくて、離婚してからは四柱推命を本気で勉強した。
僕は占いやスピリチュアルには懐疑的だが、妻の眼下に広がる世界を知りたかった。
妻が何を信じていたのかを、せめて一度は同じ土俵で見てみようと思った。
信じるかどうかは別として・・・
息子のデザインの話も同じだと思っている。
わからないままにするのではなく、調べてみる、知ってみる、息子とデザインの事で対等に話せるようになる。
その姿勢だけでも、親としての最低限の向き合い方にはなるはずだ。
だから息子の話す事に関心を持ち、わからない事は調べ知識を深めている。
ただ、それらの行動は、本人たちにとっては迷惑かもしれないし、詮索されているように思われるかもしれない。
必要とされていない可能性もある。
けれど、それでいい。
それがこちら側の勝手な想いであっても、それは妻のそれと同じく、娘のそれと同じく、息子のそれと同じく僕の生き様なのだから。
息子の生き方から見れば、自分の考え方は古いし、保守的だし、理解できなだろうが、それでも見届けようと思っている。それが今の僕にできることだし、それ以外に、特別な何かがあるとも思わない。