彼女の質感
今日の朝は車内のエアコンはまわさなかった。例年にない温かい朝で3月下旬まで気温が上がるらしい。送迎車を事業所の駐車場へ移動させ、車から降りたところで、前から軽自動車が入ってきた。訪問看護の車だった。「もうそんな時間か」と思いながら、突き抜けた蒼い空を見上げた。
年明けてからの彼女との初仕事か・・・と彼女の質感を思い出した。
彼女は、僕の担当の利用者さんに訪問看護サービスを提供していて、年の頃でいえば30代ぐらい。
出会いは、去年の11月頃だった。医者から訪問看護を入れて欲しいと依頼があり、事業所も指定されたので、その時点で僕はやる気を失っていたのだが、この担当が中村(仮名)さんになってから、この仕事が楽しくなった。
中村さんが軽自動車を降りて、まっすぐこちらへ向かってきた。
僕は手を挙げて挨拶し、中村さんは小さく会釈をした。
心地よい距離感
僕が彼女に興味を持ち始めたのは、彼女の仕事ぶりを見たからだった。僕はてっきり、看護だけを淡々と行うものと思っていたのだったが、八木さんのオムツ交換としたり、床で寝ている八木さんをベットまで移動させたりとか、看護師とは思えないほど、介護の仕事も引き受けて、積極的にかかわっていた。
そんな彼女をみて、優しい人なんだろうなと感じた。
そして、八木さんがオムツの中で失禁をしている時でも、中村さんは「めっちゃオムツの中におしっこしてて」と笑い、「まるで子どもがおしっこ漏らした感じでオムツが重くて」と続けたので、彼女に小さなお子さんがいる事を僕は知ったのだった。
僕の看護師のイメージは、バイタルを図ったり、酸素を図ったり、皮膚の状態を看たり、浮腫の状態を看たり。医療的な側面でしか患者と関わらない冷たさがあったので、彼女の仕事を見た時は、温かさを感じたし、しかも中村さんは自覚していないようだったので、この人はどんな女性なんだろうという好奇心が沸き上がるのを感じたのだった。
そこからだろうか。中村さんと良く話をするようになったのは。
「この右目っていつからですか?」と八木さんの右目が赤く貼れているのを手当しながら言った。「3日程前ぐらいですかね。」と答えると、「カップラーメンも食べてないのに、浮腫がひどくなってきてますね。」と柔らかい口調で八木さんに問いかけた、が八木さんは聞こえなかったようで「ありがとうございます!」と言った。
「聞こえてませんね」と僕が云うと、中村さんは「そうですね」と笑っていた。
「元気ですよね。さっきもトイレに自力で行かれていたし・・・」と、ピアノというよりは、ピアニカのような音色の声というか、可愛らしいハスキーな声質で振り向いて僕に言った。よく笑って、よく仕事して、会話が途切れず言葉が音楽のように響く。彼女との仕事はいつもこんな感じだった。
話をしていると会話のテンポにつられて、いつまでも話してしまいそうな雰囲気になるので、僕は鍋を取り出し八木さんの朝食を作り始めた。IHヒーターで鍋を温め、ベーコンを並べて上に卵を乗せる。ジューと肉が焼ける音が聞こえてきたと思ったら、美味しそうな香りが立ち込めてきて、そこに少し水を入れて、蓋をする。
たまごが固まるまで時間があるので、僕は中村さんの方に向いて、「初詣はどこ行ってきたんですか?」と少し湿度のある言葉を投げかけた。すると中村さんは「水間寺です。近場で済ましました。」と笑って答えた。
どうやら隣町ぐらいで住んでいるらしかったが、僕は踏み込む気もなく、水間寺に会話の重心を置いた。水間寺というのは水間観音と呼ばれて、厄除けで有名な寺だった。小学生の時にデッサンで訪れた事があって、先生に絵が上手だと誉められたのを思い出した。
「よく水間寺にお参りしたと聞きますよ。ここらへんじゃ有名ですもんね」と云いながら、僕は距離を詰めないように境界線を丁寧にひいた。
「山本さんはどこに行かれたんですか?」
「僕は京都の方に行きましたよ。登山を兼ねてね。」と答えると
「登山」っとボソっと言った後に少し間があった。会話の流れが淀む揺れを感じたので、僕は会話を切り上げるタイミングだろうなと思い、出来上がったベーコンの目玉焼きを皿にのせて、チーズののった食パンを切り、コーンスープを注いでテーブルの上においた。
「じゃぁ中村さん、そろそろ僕はデイに戻りますね。なにかあったら教えて下さい。」と、彼女の顔を覗き込み、精一杯の笑顔を作って部屋を出た。
階段を降りながら、思い返していた。子供と行ったんですか・・とか、混雑してたんですか・・とか、お住まいは水間寺の近くなんですか・・とか、距離を詰める事も出来たんだけど、なんだか今の温度感が好きで、ほっと温かく感じる今の距離感でいるほうが心地良かった。
その方が良いような気がした。理由はわからない。
余韻
デイルームに戻ると庭に咲くパンジーが目に入った。国華園で1個56円の安売りをケースで買ってきたもので、青やら白やら黄色と、冬の殺風景な庭に色どりを飾っていた。特に黄色が鮮やかで気持ちがよかった。風で花びらが揺られていた。先週植えたばかりなので、まだ根が張っていないので、花びらに元気がないように感じた。
花と同じように、人がまとう質感ってのがある。中村さんのそれは、特に派手な感じでもなく、素朴さがあって、ホッと気が緩むような感じで、僕はその質感が好きだった。
自分の席に座り、エクセルに数字を入力しながら、利用料の入金処理をはじめたが、しばらく中村さんの質感が離れなかった。なんだか、とても心地良かった。
渋滞する会話
僕はスタッフの報告を聞いていた。明日、厨房を見学に来る人がいるようで、その人は一度、調理をする一連の業務を見ておきたいというのだった。とても慎重な人だなと思ったけど、それほど真面目な人ということなんだろう。
「まだ決めてないって言うんですけどね、だけど厨房のことを見てみたいって言うんですよ。それでね、明日来てくれることになってるんですけど、多分気に入ると思いますよ。ここの雰囲気にもあってますしね。」
ここの雰囲気に合うという事は、たぶんおとなしくて控えめな人なんだろうなと僕は想像した。
今の職を離れるのは、少しの期間が必要なのだけど、それでも僕は彼女が働けるまで僕が調理をすればいいし、待てる事もその人に伝えておいてとスタッフに指示しておいた。
「めっちゃ良い人なんですよ。」と僕を見上げて話す。僕の肩ぐらいの身長の中山さんは、目が小さくてマスクをしていると、まるでアニメの脇役みたいな感じになる。ただの通行人は簡単にササっと描かれるアレだ。
「そしてね、明日、来るんですけど、旦那さんにおくってきてもえるんですって。だから9:30ぐらいから来るんですけど、お昼食べて帰ってもらっていいですか?その際、お金って・・・」というところで、僕は親指と人差し指でマルをつくって、ウンウンと頷いた。
感情豊かで、視野が広くて、直覚的な質感をもった中山さんは、ほのかに線香の香りを宿していて、おならのイメージも併せ持つという「ん?・・・」といった異色の輝きがあったりするけど、報告はとても長く、そして押して押して押して、たまらず僕は「もういい。押さなくていいから。」と、まいった。ホントにまいった。って感じで話をしてくる。
更に報告は続いた。
「ホントにめちゃ良い人なんですよ。本当にね気がいい人でね、昔一緒の職場にいたんですけど、私が苦手な人がいて、その人と距離を取っていたんですけど、明日くる子は見事に捕まっていて、断ればいいのにと思っていたんですけどぉ」
彼女は目を見て話さないと怒るので、僕はいつも彼女の目を見て報告を聞くようにしているんだけど、そのキョロキョロとした目を見ていると、なんだかどこを見ていいんやらわからなくなってきて、話の内容よりも、話す時ってどこに視線を向ければよかったっけ?右目を見てたっけ、左目を見た方がいいのかとか、そんなことを考えてしまって、ぐるぐるぐるぐると違和感が回ってくる。
そこにチャイムが鳴ったので、僕から視線を外してドアのほうへ小走りで離れていった。僕はほっとして椅子に座った。
少し心が摩耗したな・・・
パーマくん
来客は、馴染みの営業マンで、彼は、施設への紹介をする業者で働いていて、隣町の海塚だったか、そこで青年団をしている経験もあったり、 だから、共通の知人がいたわけだけども、あまり僕はその共通の知人のことを好きではなかったので、少し身構えながら話をしたのが彼との最初の出会いだった。
彼の髪型はパーマがかかっていて、これがパーマなのか、それとも単なるくせ毛なのか、僕はわからないけれども、スタッフたちはパーマの人と呼んでいる。
名前は長谷川と言った。
彼はにこやかに僕を見て、「どうも久しぶりです」と軽く会釈をした。 そして、僕は少し時間が長くなるなと呼吸を整え、彼に右手を挙げて「やあ」と答えた。
彼は営業のくせして、先日、有馬の方まで行ってきて、施設を紹介しましたとか、岐阜の方まで行って、施設を紹介しましたとか、僕は聞きもしないのに、仕事の成果を誇らしげに話し始めた。
以前、長谷川君に僕は飲みに行こうかと誘ったんだけども、その時は、たぶん彼は仕事を抱えすぎていたのだろうか。 飲みに行く翌日にになって連絡が入り、コロナになったと連絡が入りキャンセルになったのだけど、後から聞くと軽症うつ病になっていたそうだ。
僕もうつ症状には経験があったので、笑えないとか、失敗をリカバリーできないぐらいに脳がフリーズしているとか、急に不安がこみ上げてきたりとか、頭の後頭部からぐーっと迫ってくる重いものが思考を縛ってしまうとか、彼の病状をなんとなく想像ができた。
2ヶ月か3ヶ月か経ち、仕事に復帰した彼は、年末ぐらいに挨拶に来て、それから新年の挨拶にきたのだけど、僕が不在で会えなくて、それからの今日というわけだった。
表情は元気そうで、ニコニコと話し、そして彼はピッと背筋が伸びていて、まっすぐ僕の目を見て、で、仕事の向き合い方が少し変わったとか、力の抜き加減を覚えたとか、そんな話を軽やかな笑顔と共に話している。
彼の話すリズムに、「そうか」とか、「それは良かったな」とか、あいずちを入れながら、音楽のような会話を楽しみつつも、再び飲みに行こうかと誘って良いものか思案していた。色々考えたあげく、 結局、今は飲みに行くのを誘うのはやめておこうという結論に至った。
なんとなくだけど、彼との関係が、少しずつではあるけども、 鉢植えに植えた花が根を張っていくように、 彼との関係も育ってきているように感じていたけど、彼は20代でたぶん取引先の50歳のオッサンとの飲み会は緊張するだろう。うつ症状を抜け出したとはいえ、あまり無理をさせてはいけないなと思った。
僕は彼ににこりと笑い、「ごめん、ちょっと仕事が混んでて」と言うと、彼はうなずき、そして「また連絡するわ」と会話を切り上げた。
しかし気持ちの良い青年だ。別れた後が気持ちがいい。
鏡の向こうの他人のような僕
彼と別れ、戻ろうとした時に、デイルームに大きな鏡に自分が映り込む。もうひとりの自分のような、自分ではないような、違和感を覚えて、はたと立ち止まり、鏡を覗き込み、もうひとりの僕と向き合った。自分にまとう質感が、知らない誰かに感じる。 うん?これは本当に自分なのかと、奇妙な感覚がまとわりついた。鏡の向こうの僕は、僕の知ってる僕ではないように感じたからだった。
違和感の正体はわからなかったが、たぶん、僕から立ち上がる質感が、僕ではない他人に感じるのは、この6年間を生きてきて、 悲しみも、苦しみも、怒りも、そしてうつ症状も、それから息子との再会も、いろんな出来事が、鏡の向こうの僕を作ったんだなと納得するのに、そう時間はかからなかった。
なんとも奇妙な自分を見ているようだった。
以前の僕からすると、質感が変わりすぎたんだ。大きなショックは変わる力と比例する。大きな爆発があれば、地形ごと吹っ飛ぶように、僕の輪郭も大きすぎた爆発で、変わったんだと思う。
確かに変わろうとするエネルギーたるや、爆発的な熱量を放ってきた6年間だったからな。
まさに、質感ともに別人になったんだろうな。
君の質感
僕の中には、昔の君がまだそこで座っている。そしてベランダで洗濯物を干していたり、丸テーブルでお化粧をしていたり、パックをしていたり、少し口を歪ませて僕を瞳を覗き込む仕草で、僕に何かを仕掛けてやろうというような挑戦的な笑みを浮かべていたり、君は僕の中でずっとある。
その質感は、温かくて、安心できて、そしてガラスのように繊細で、心を預けれるほどに無防備でいれて、そしてみかんの香りがする。
だけどそれは、僕の中で生き続けている過去の君であって、君も僕と同じように、この6年間の中で、別人に変わってしまったんだろう。そして質感も違うものになっているのだろう。
もし街ですれ違うことがあったら、僕は気づけるんだろうか。
6年前の調停の帰り。 僕は利用者さんの安否確認のために、公園を抜けて国道の先へ自転車を走らせていた。 そして、ローソンに差しかかろうとした時に、君が目の前を歩いているのに気が付いた。
白に赤の線が入った靴、そして、あれはモザイク柄とでも言うのか、白と黒のズボン。 そして、ピンクのリュックサック、マスクと帽子をしていたが、君の質感が立ち上がっていたので、僕はすぐに君だとわかった。
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振り向いた君は、
僕の知っている君ではなかったけれど、
あの時の君の質感は紛れもなく君だった。
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