降水確率40%。たぶん降るんだろうなと思ったけど、まぁいいかとバイクを出す。
静かな山道を、ただひとりで走りたかった。
最近疲れていて一人でボーっとしたかった。
ちょいと仕事での人間関係のトラブルもあり
モヤモヤ感が収まり着かず、自分を持て余していたりした。
行先はどこでも良かったんだけど、
このぼーっとした意識を冷やしに高野山に行く事にした。
真言宗の聖地。僕の宗派でもあり、先祖供養でよく訪れる場所でもある。
ただ、不思議なことに、高野山を訪れるときはいつも決まって雨が降る。
今回もそうだった。視界をさえぎる霧雨の中、ゆっくりと坂道を登っていった。
ひさしぶりのバイクなので体がついてこない。
山道をくねくねとワインディングロードで体がこわばる。
今にも立ちごけしそう。
ボーっと風を感じて走るといった余裕なく
高野山までの山道を霧と雨で濡れながらバイクを走らせる。
いつも雨が降るってことは
高野山に来るのに試練を与えられているようで、ひとり苦笑した。

嫌がらせされてんじゃないのか・・・
でも、ふと思った。
この雨は、もしかしたら「清め」かもしれない。
いや、それだけではなく、「気づき」を促す雨なのかもしれないと。
仏教・宗教的文章の中で、「慈雨」という言葉がある。
これは「慈悲の雨」という意味で、仏や菩薩の慈悲が雨のように降り注ぎ、すべての人々を潤す恩恵の意味を伴う言葉だそうな。
「一滴一滴の雨が大地を潤すように、教えや慈悲の心も人の心を濡らして育てる」ということだ。
実際、この日、僕はバイクで走りながら、仕事上での人間関係を思い出しながら走っていた。
感情が沸き立っては冷静になり、考えては言葉にして自分の身に起きた事を整理していた。
そして、ひとつの大きな気づきを得た。
それは人との関係についてだった。
人の心は、急に変わるわけじゃない。
静かに、でも確実に、積もるように変化していく。
小さな不満がひとつ、またひとつ。
それでも表には出ない。
ただ、心の奥で静かに積もっていく。
そして、限界に達したとき、はじめて行動として表れる。
周囲からすれば、「急に変わった」ように見えるけれど、
実際には、長い時間をかけてその関係は削られている。
だけど。
そんな削れかけた関係でさえ、
たったひと言の「ありがとう」で救われることもある。
ほんの少しの思いやりや気づかいが、不満を流してくれることもある。
でも、それが当然だと思われて感謝ひとつもなかったら
ダムが決壊するように不満はすべてを押し流す。
霧と雨の中のツーリングで高野山に近づくにつれて
今回の僕の身に起こった人間関係のトラブルにも整理がつき
さらに元妻の心の変化にも考え及ぶに至った。
仏教では「頓悟(とんご)」、つまり「突然に悟りを開く」体験の事をいうのだが
今日は、瞬間的に、急激に、意識が変化する理解に至った気がした。
一気に視界が開けハッキリ見えた。
僕自身、そういう人間関係の後悔をいくつも抱えてきた。
いろんな学びを無作為に続けてきたながで、
人との関係は育てるものだと思うに至った。
そして支える努力がなければ、やがて崩れてしまう。
これは離婚を経験して痛みと共に理解した。
物事の真理は、不変なものなどなく、すべては変わってゆくということ。
だからこそ、良い方向へと変えてゆくための意志と行動が、人との関係でも必要なのだ。
帰り道。
高野町の入口にある大門にさしかかったとき、
その景色は突然、目の前に現れた。


雲海と夕陽。
雨上がりの山々に立ちこめた雲が、まるで大地から立ち昇るように広がり、
そこへ西の空から柔らかい夕陽が差し込んでいた。


幻想的で、言葉を失うほどの美しさだった。
しばらくバイクを停めたまま、ただその景色を眺めていた。
心が、すっと軽くなるのを感じた。
まるで、先祖が「ようやく気づいたな」と微笑んでくれているような、
そんな不思議な安心感があった。
人も、天気も、風景も。
すべては移ろい、変わってゆく。
だからこそ、今この瞬間に目を向けて、丁寧に向き合っていきたいと思う。
支えたい人には、ちゃんと支えを。
感謝すべき人には、きちんと感謝を。
関係を育てる努力を惜しまない。
それが、これからの僕の小さな目標です。



帰りはごま豆腐を買って帰りましたとさ

