役割から個へ──箕輪不倫疑惑報道に想うこと
夏の夜、SNSを眺めていると、幻冬舎の編集者・箕輪厚介さんがお遍路してました。

なんでお遍路してんだ?
んで、調べてみたら人気YouTuber・インフルエンサーの 「いけちゃん」との不倫疑惑が報道があったんですね。他人の不倫なんて興味がないので、1か月遅れで知りました。
で、世間では「開き直りだ」と厳しい批判が相次いでたりして、なかなか面白いわけです。
実際に彼は生配信で、
「子どもがかわいそう」などの善意風コメントが一番の加害行為だ
「褒められた行動ではないけど、誰しも間違える」
と語り、さらに「俺はもう無理よ。永遠にこんなもんだよ。そういう人」と断言していました。Xでも、
「何の公益性もないのにプライバシーを暴いて飯食ってる週刊誌と、家族が可哀そうとか正論を言ってるフリして絡んでくる連中が家族からしたら一番クソなんだよ」
といった強い言葉を投げかけていました。
確かに反省がないように映る発言ですが、僕にはその姿がどこか人間らしく見えるんですよ。
弱さも間違いも隠さずに出してしまう、その不器用さに惹きつけられるわけです。彼の言葉の奥に「完璧でなくてもいい」という響きがあったように思います。
役割に縛られてきた自分
振り返れば、僕自身はずっと「役割」で生きてきた人間でした。
常に誰かに求められる役割に応えようと余裕なく走り続け、よい人を演じることに必死で、自分自身をおざなりにしてきました。
その昔、「幽霊みたい」と揶揄された事がありましたが、まぁ魂が抜けたような感じだったんでしょうね。
役割に自分の存在価値を置き、それが周囲から評価されることでさらに強化され、ますます役割を全うしなければと自分を追い詰めていく。そんな悪循環のなかに長らく身を置いていたのです。



変だとは微塵も思わないのよね
結婚生活でも同じでした。妻に対して「母として」「妻として」という役割ばかりを求めてしまい、彼女をひとりの女性として見る余裕がなかった。家事や子育て、そして僕の仕事をサポートして応えてくれていたのですが、それを当たり前だと思い、彼女自身がどんな気持ちを抱いていたかには目を向けられなかった。
彼女を深い寂しさの中に置いてしまったのだと思います。
無条件に認められること
「社会的な役割より、無条件に認めてくれる誰かを求める」
いけちゃんが箕輪さんと関係を持ってしまった背景にも、そこが大きく関わっている気がします。役割を押し付けられる社会のなかで、素のままの自分を受け入れてくれる誰かを求めてしまう。満たされない承認欲求は、人を思いがけない方向に導いてしまうのだと思います。
女性にとっての承認欲求は「役割を果たすから認められる」のではなく、「存在そのものを愛される」こと。社会の枠組みのなかで個が軽んじられてしまうとき、「役割を外したあなたが好き」と言ってくれる人が現れたら、心が揺れるのは自然なことです。
僕自身、かつてはそれを理解できませんでした。だからこそ妻を役割でしか見られず、結果として寂しさを背負わせてしまったのだと思います。



例え過去に戻って過去の僕を諭したとしても、たぶん当時の僕はわからない
学びと変化
離婚を経て、僕は少しずつ変わりました。
役割に縛られる生き方から、個を大切にする生き方へ。
急がず、信じて待つこと。その難しさを身に染みて知りました。
一筋縄ではいかず、離婚後の自己否定の中でもがきにもがきました。そのなかで学びを得て知識を深め、少しずつ視野が広がっていきました。
役割を演じることをやめる勇気を持ったとき、今まで居た場所から離れて役割を手放し、新しい場所や新たな人間関係、そして目に映る景色が変わってきたんですよね。
やがて素の自分、自然体の自分を出せるようになり、自分の個を大切にしていると、相手の個も大切にしたいと思えるようになってくるんです。
その変化は他者にも伝わり、人が自然と寄ってくるようになった。人間関係が少しずつうまく回り始めたのを実感して、手ごたえを感じる事が出来たわけです。
今の僕は、ようやく「元妻がどんな女性だったのか」を知りたいと思えるようになりました。母でも妻でもなく、ひとりの女性としての彼女。その心の揺れや喜びに想いを馳せること。
過去をなぞる事が、僕にとって大きな学びになっています。
道徳観と僕らのモノサシ
不倫は社会的に許されない行為です。それは間違いありません。
ただ、見方を変えれば、その根底にはキリスト教の道徳観念があります。明治以降の西洋化のなかで導入された教育はこの道徳観を強く反映しており、僕たちはその枠組みのなかで善悪を教えられてきました。



今の道徳観に対して、疑いを持つ人がどれだけいるんだろうか?
僕が言いたいのは、なんでも妄信してはいけないということです。大切なのは、自分の頭で考え、自分なりのモノサシで生きること。
そんな問いを、自分自身に向けています。
箕輪さんの姿に重ねる
箕輪さんは、枠から外れ、弱さや間違いを隠さずに生きているんだと思うんですよ。その姿は批判も招きますが、同時に「役割を超えた個の姿」として僕の目には映ります。関わった女性がそこに惹かれたのも、役割から解放されたい一瞬を求めてのことだったのかもしれません。
不倫は間違っているとか、そんな正論じゃなくて、人が「無条件に愛されたい」と願う心の奥に光を当てるなら、また違ったものが見えてくる気がします。
弱さを抱え、間違いを繰り返しながら、それでも生きていく。



僕はそこに強く共感を覚えるのです。
おわりに
人生には、役割に縛られる時期もあれば、そこから解き放たれて「個」として向き合える時期もあります。僕はようやくその入り口に立ったのかもしれません。
元妻がどんな女性だったのかを知りたいという気持ち。それはもう彼女を取り戻すためではなく、劇薬を呑まされ変わった自分の揺るぎない自信なのだと思います。



迷走も、間違いも、弱さも。すべてが人らしい。
だからこそ、誰かを信じて待てる今の自分を、少しは肯定してもいいのかもしれません。そして、あの頃できなかったことを、これからの人生で少しずつ返していけたらと思います。