街と森は違う物語があり
ふたつの川は海へ流れつく
体の軋みから始まる朝
身体の痛みで目が覚めた。寝違えたのか、右肩に痛みが走る。そして後頭部がじんじんと痺れる感覚があった。どうやら血圧も上がっているらしい。
今日は日曜日だ。時間に追われる事もない。目を閉じて深く呼吸を整えて、痛いところを手でさすった。整体でいう手あてというやつだが、僕は他人に体を触れれるのが苦手だ。痛いからといって整骨院に行く事もないので、自分でこうやってケアをする。
痛みの走る右肩を重点的にゆっくり伸ばし、動ける範囲を探し当ててゆく。肩から腰へ足先へと意識をやると、いつもの足のしびれはかなりマシになっていた。ハイチュオールCを飲み始めてから不思議と足の感覚が戻ってきていた。
静かに目を開けると朝日が部屋に差し込んでいた。小鳥の声を聞こえる。とても気持ちの良い朝だった。身体の感覚は僕にシンクロしてきたので、やっと僕は僕の身体を動かせそうだ。
各部署がオールグリーンのサインを出したので、重力に逆らい立ち上がった。そして寝室を後にした。
小さな再起動
寝室から居間を素通りして浴室へ行き、シャワーの蛇口をひねる。勢いよくお湯がでると湯気が立ち込める。乾いた空気はたちまち色をもちはじめた。
僕は朝の熱いシャワーを頭から浴びながら、身体が悲鳴を上げている理由を探した。身体の不調は、だいたいは日頃の無理が原因だ。おなかの調子が悪かったりとか、歯茎が痛み出したりとか、ギックリ腰になったりとか、身体は正直なもので、何かを抱え込みすぎていたり、自分のキャパ以上の仕事に振り回されていたり、人間関係に神経質になっていたりすると、身体が「そろそろやめてくれ」とサインを出す。
人の身体は良く出来ている。
癖としての「抱え込み」
人には、考え方の癖がしみついて、まるで指紋のように、ただそこにはあるのだが、ちゃんと個を放っている。
人は生きるために培った畑がある。この畑で採れたものは、その畑でしか作れない味があって、僕らはその癖にそって、息をするみたいに考え選んでいる。
僕の畑でとれたものは、全部を抱え込んでしまうような味になってて、それを料理して食べる僕は、次第に疲れてゆく。これが心身を悪くするんだけど、僕は俯瞰で理解しつつも、じゃぁどう耕せばいいのかまだわからない。
今朝の痛みは、たぶん、まだその味が残っていたせいだ。
僕の考え方には癖がある。その癖を知っておく事は、自分の畑でどんな味のものが出来るのかを知る事につながるし、たとえ不味かろうと旨かろうと、知っているだけで調理方法が変わる。
限界を迎えない知恵
今年の正月は休みがない。入居者のひとりが外で転倒して、歩行者の人が救急車を呼んでくれて病院で検査したら、見事に肋骨と恥骨と座骨がヒビ入っていた。
ただそれでも手術するほどではなく、
結局その入居者は入院せず帰って来た。
だけど一人暮らしなので誰も助けがいない。一時的に自力で立てなくなり、痛みで食欲も低下した。冷たいお弁当が配食サービスで届くけども、やっぱりほとんど残っている。食欲を戻すために、食べやすいうどんを作る事になり、もうほとんど背負いこむことになった。
朝に安否確認に入ると床で寝ていたりするのだが、これはベットからずり落ちたのか、それともトイレに行こうと思って断念したのか、もう状況が全くわからないところから始まる。
山口(仮名)さんおはよう。と声をかけると、彼女は誰かの気配を感じつつも、誰とは確認せぬままに、
「ちょっと起こしてくださる?」と言う。
たぶん余裕がないのだろうけども、僕は山口さんを強引にベットへと引きずり上げると、
「あぁやっとラクになりましたわ。ありがとう。」と
まるで社長夫人のような話し方をする。
「ちょっとあなた。冷蔵庫からおミカン取って下さる?」
とまた、上品な言葉遣いで云うのだが、なんともお金持ちのセレブという雰囲気を醸し出しているくせに、ズボンはおしっこでずぶ濡れになっていたりする。このアンバランスな感じがなんとも独特な空気で。
それが最近の僕の一日の最初の仕事。
これが毎日、それこそ日曜日もあり、意地でも30分で終わらせようと、山口さんの部屋を僕が仕事しやすいように配置換えを行った。
その結果、流れとして業務が出来上がった
- 朝の事件現場に遭遇しつつ、
- 鍋を水を入れて電気コンロにかけて
- 山口さんを起こしてトイレ誘導して
- 生卵・うどんの素・麺を一気に鍋に投入し
- オムツ交換をしてトイレからベットへ誘導
- 汚れたオムツの処理をして
- 汚れたズボンは台所で石鹸で洗いシャワー室で干す
- その間にうどんが出来て配膳して
- 食後のクスリを目の前に出す
これで30分。要は継続優先でとにかく処理する事が肝心で、完璧は排除するという知恵を施し、意識することは60点でOKということ。在宅生活を続けるうえで、必要最低限のサービスを行って、そこに「かわいそう」とかいった感情は持ち込まない、意味づけもしないという強固な線を引く。
それが正月も休みがなくなった僕の心身を守るルールとなった。
60点でいいという物語
たぶん僕は思うんだよ。
君は擦り切れるぐらい頑張ったし、耐えたし、それでもやり切った。だけど限界を迎えてしまって、自分を守るために、それこそ生存するために別れへと舵を切った。そして舵を切った自分の物語を語る事は、君が君でいられるために必要なことだった。
僕は君を失い家族と別れて壊れそうになっていて、君と同じように僕は僕の物語として語り、かろうじて自分のアイデンティティーの形を保てていた。
この山口さんの話だって同じで、こんな正月休みがなくなるほど一人で背負いこんでしまったけど、やらなくちゃいけない状況で、僕は山口さんの家族でもなんでもないし、出来る事なんて限られているし、そもそも正月休み返上で働くく最悪な状況だし、完璧にやってちゃ僕がつぶれそうだから、真面目は捨てて60点でいいよっていう物語が今の僕には必要だったりするんだ。
つまり自分が壊れそうな時、
この選択をする自分は正しいという物語を語る。
これはとても人らしいと思うし、
その物語が今の自分を支えているんだ。
自分を保つための物語
つまりね。僕は思うんだけど、当時6年前の僕と君はそれぞれの物語を語っていた。君は離れるための物語を語り、一方で僕はアイデンティティーの喪失を補うための物語を語っていた。
仮にあの時にやり直し出来ていたとしたら、その瞬間に君か僕のどちらかの物語を降ろさなくちゃいけなくなっていたんだ。それは自分が壊れるという事を意味していたし、それぞれの正しさの物語だったんだから、無理やりひとつの物語にしていたら本当に壊れていたよ。
鬼がいるから桃太郎は物語になるんだよ。
だからあの時の物語は戦う事でしか語れなかったんだ。
あの時の物語は手放せたのか?
「あの時の物語は手放せたのか?」
これは僕が僕に与えた問であり、自分の正しさ証明する物語を手放してしまえば、あの選択はなんだったのかという次の問いが生まれてくる。
で、あの時はあの語り方しか出来なかったと僕は答える。
だってお互いに壊れてしまいそうだったんだから。
この問いへの答えを見つけたら、なんだかもうこの物語はいらないような気がしてきて、桃太郎も鬼も舞台から降りても差し支えないなと感じたわけなんだ。そこに何も無いと気がついてきたから。
誰が正しいのか?
誰が間違っているのか?
こんな物語を語るよりも
もっと大切な事を物語に織り込みたいと思っていて
僕と君
それぞれの正しさがある
この物語なら、平行して語れるものがあって、なんか素敵な物語になりそうだと感じるんだよ。
物語は書き変える事が出来る
今日は有馬記念だ。この最後のG1のために500円貯金をしてきたんだけど、息子が養育費を取りに来て、
「養育費ちょうだい」と寝ているところを起こされたものだから、今は現金がないんだと答えたんだけど、友達と飲みに行くから今すぐ欲しいというわけで、そもそも養育費は遊びのお金じゃなくて生活のためのお金なんだけど、どうも息子の金管理は昔の僕を見ているようで。
暗い部屋でふと思い出したのが500円貯金で、空の綿棒の容器に500円玉を入れておいたんだけど、あれごと全部息子にもってけと言ってしまって、あとから後悔した。
あれ、いくらぐらい溜まっていたんだろう・・・
翌朝になって後悔しても遅くて、今更返してくれというカッコの悪い事は言えないなと思いながら、有馬記念の掛け金を全損した気分になってきた。
レガレイラ(武豊)・メイショウタバル(ルメール)の2頭軸の紐3頭で18点買い各100円の1800円を投票して、見事に敗戦の陣だったけども、結果オーライかな。
息子に投資したと思えばいいか。服作りに役にたてればいいや。
競馬は勝負じゃなくて、観戦料として気軽に構える。
負けても許容できる金額で。
まぁ今日のところはこれでいいさ。
