僕は誰かに合わせない。
そして誰かを合わせようともしない。
自分の輪郭を取り戻すための表現について
夕方の太陽が妙に眩しく感じる今日この頃。
今日は僕と息子の世界を描くよ。
この数年、自分に課していたいろんな役割を、少しずつ手放してきたんだよ。
君はちゃんと自分と他人に線引きをして、
これは自分の領域ではないと守ってきていたけど
僕もやっとその領域に足を踏み入れることが出来たよ。
祭礼団体、育成会、福祉委員会、そして祭礼団体から派生したツーリングチーム…。
どれも、やると決めたのは自分だけど、いつのまにか「期待に応えること」が目的になっていった。
なぜだろうね。君は僕を止めてくれていたけど、当時の僕はわからなかったんだ。
コロナの2020年頃かな。
特に祭礼団体は、使い使われる関係のなかで、
ただ時間を奪われていくような感覚が募っていったんだよ。
そんな時に仲間と大喧嘩をしてね。
「もういいかな」と思えて祭礼団体を辞めたんだ。
20年も続けた祭礼団体を辞めて初めて、静けさが戻ってきたんだよね。
外のざわめきが消えると、
やっと自分の輪郭が見えてきたような、そんな感じがしたんだよ。
辞めた後も昔からの仲間が声をかけてくれたこともあったけれど、
それは今の僕が求めている方向とは少し違っていたんだ。
もう祭礼団体に戻る事はないんだよと、仲間にそっと伝えたんだ。
これからはもう誰かの速度に合わせず、
自分の世界を、自分のテンポで、ゆっくりと歩いていこうと思っている。
そして、その出発点にあるのは、やっぱり「内面」なんだ。
人の「リアル」こそが惹かれる場所
写真を撮っていて感じるのはさ
カメラを意識してつくられた表情に、どうしても興味が持てないということ。
そこに写っているのは、ただの「表面」であって、物語じゃないんだよ。
僕が所属する登山部に女性が参加することがあるんだけど
写真を撮ろうとすると、どうしても表情を作るんだよ。
こっちを見てニッコリだったり、ピースだったり
気持ちは分かるけど、僕が惹かれるのは、もっと別のところにある。
言葉にならない迷いとか、
ふっと漏れるような思考とか、
その人の人生のかけらが、黙って滲み出るような瞬間。
そんな人の湿った体温が感じる瞬間に美しさを感じたりするんだよね。








でも、そういう瞬間は狙って撮れるものじゃないんだ。
だから僕は、逆光とかシルエット、影やモノクロを使って意図的に表現したりする。
捉えられないんだったら、無理に捉えようとする必要はないんだよ。
追いかけると逃げるしね。そういうもんだから。
だから
「捉えられないものを、捉えられないままに表現する」
それが、いまの僕にはしっくりくる。
写しているのは、いつも「自分」
写真も、ブログも、動画も。
結局は全部、自分の輪郭でしか表現できないものなんだ。
観察をして、構造を理解する。
でもそれは他人の内面を見たいというより、
自分の内面を、外側から見つめ直しているような感覚。
つまり僕というフィルターを通して作品が生まれる。
写しているのは、被写体を通した自分っていうことかな。
その意味では、被写体は入口にすぎない。
だから自分の世界をつくることに面白さを感じているんだ。
自分の世界がからっぽだったら、何も作れないからね。
息子の世界が動き出した瞬間
「群れない」選択をしたとき、ノイズは減った。
これは、僕自身もそうだったし、息子も同じだったらしいよ。
好き嫌いで一時の楽しさを求めて騒ぐ事も楽しいのだけど
僕と息子は、群れる楽しさよりも、静かに自分のペースで楽しむほうがしっくりくる。
彼もまた、話の合わない人とは無理に群れないという選択をした。
それが高校生の時だったようだよ。
そのタイミングで、バイクの免許を取りたいと僕の仕事場に来たんだ。
バイクから彼の世界が少しずつ動き出したと息子が言っていたよ。
そして、止まっていた僕の時間が動き出したのも、この瞬間だったんだよ。
もちろん、群れないという選択は、孤立や孤独を連れてくる。
でも、それがノイズを減らしてくれて、僕や息子を壊さず、むしろ深めてくれるのなら、
それはそれで悪くない生き方だと思うんだ。
話はそれるけど、息子は成人の集いには行かないと言ってたけど
どういった心境の変化か、成人の集いには行くそうだよ。
やりたい事がみつかったと言っていたけど
それが何かなのかは聞かなかったけどね。
詮索しない余白も、人生の楽しみのひとつだからね。
発信することの意味
承認欲求を求めているわけじゃないんだけど
僕も息子も発信は続けているんだよ。
Xには写真を世界に向けて英語でポストしてたり
YouTubeには、ウインドサーフィン、登山、バイク、そしてうつ症状に悩んだときの話も。
どれも自分の世界観で発信しているけど、うつ症状に関しては違ったりする。
うつは僕も初めて体験したけど、なかなかにたいへんだったよ。
今も同じ症状で悩んでいる人もいると思うから、
誰かの役に立てればと包み隠さず動画にしてたりする。
それに人生の浮き沈みも含めて物語だからね。
物語性に人は心を打たれたりするだろ?
息子はもっぱらTikTokで服の発信だよ。
アカウントは知らないけどね。
詮索しないというのが僕たちの暗黙のルールなんだよ。
話を戻すね。
群れないことで孤独を迎えるけれど、
発信を続けることで共鳴する人が集まってくるんだ。
それは、小さなコミュニティーであり、静かなつながり。
この繋がりの中では、僕なりの信念があってね。
ここが昔とは決定的に変わったところなんだけど
僕は誰かに合わせない。
そして誰かを合わせようともしない。
ただ、僕の世界は、僕が好き勝手に楽しもうというスタンツなんだよ。
それは息子も同じ考えみたいで、そこらへんの距離感が合うんだよ。
多くを求めすぎると自分の軸が内から外へズレるからね、それだけで十分だなと思うんだ。
今、静けさのなかにいる
他人の影が入り込んでくることは、もう大きな問題ではなくなっていて
流れていくノイズは、ただの小石のようなもの。
踏んでしまえば、気にも留めなくなる。
僕の変化を面白がる人もいるけれど、反応はしない。ただ通り過ぎるだけ・・・。
ツーリングでも必要以上にLINEや電話がかかってくるけど
どれもいまの僕が求めている方向とは違うんだ。
大切なのは、誰かに合わせることではなく、
自分の速度に戻ることだったんだ。
必要以上の熱や摩擦を、自分の領域に入れてしまうとノイズが立つ。
ノイズは自分の世界を汚してしまうように感じてしまうんだ。
今の僕にあるのは、静けさであり、自由であり、
そして少しずつ深まっていく「自分の世界の気配」なんだよ。
これから、もっと深く潜っていくような気がするよ。
山の時間も、カメラも、ウインドサーフィンも、バイクも、絵も・・・
すべてが、自分の輪郭を描き足していくための旅になる。
そのなかで、また新しい光や影に出会う。
それを、静かに積み重ねていく。
僕と息子の世界は、そこから生まれていくんだよ。
理解されなくても構わない。
そもそも理解を求めない。
ただただ、深めてゆく。
もし、君が気が向けばの話だけど
この世界の風を感じてみないかい?
