神戸で阪神・淡路大震災から30年に合わせて開催されているイベントある。大ゴッホ展と題して、「夜のカフェテラス」という副題がついている。
ゴッホというと「ひまわり」「夜のカフェテラス」「自画像」とか有名だけど、それよりもゴッホの生き様のほうが僕にとっては興味がある。当時としては、ゴーギャンや、ロートレックや、ピサロやモネがいるが、パリ時代に交流を深めながらも、どうしても馴染めなかったゴッホがいるんだろうなぁと感じてしまう。
孤独を愛しているわけではないが、誰からも理解されず、孤独になってしまった男が、ついには諦め開き直り、自分の画風を確立したような、ゴッホの生き様が、僕は好きだ。
この大ゴッホ展は、令和7年9月から神戸市立博物館で開催されていた。それは万博会期中にSNSのあるポストで知り、万博会期中に出向こうと思っていたものの、結局、タイミングを逃し、気がつけば次の日曜日が最終日という日を迎えてしまった。
万博期間中ならば、万博のほうに大衆の目が向いているので、ゆっくり観れると思っていたが、結局は最終日まで残してしまったわけで、たぶん、というか、きっと混雑しているだろうと思った。
それでも、この日曜日に行こうと思ったのは、やっぱり本物が来てるんだから、いつ観れるかわからない絵を、生きているうちにこの目で見ておこう。そして少ない感性ながらも、なにかを感じておこうと思ったからだった。
息子を誘う
すっかり芸術肌になった息子に声をかけると、即答で「行きたい」という返事だった。誘ったのは木曜日の事だったので、さすがに忘れているだろうと思っていると、息子にしては珍しく覚えていた。
出発前に、息子に確認をとった。「予約なんだけどさ、取れないんだよね。現地に行って入場制限かかって観れないってあり得ると思うんだけど、それでもいく?」と。
「ま。それでもいいじゃん。行こうよ。」と息子は言った。自分の感性を満たしてくれるものなら、どこへでも行くといった熱意がある返答だったので、「じゃぁ行こう。」と車を走らせた。
しかし、予約出来ないほどの人気。それも最終日の突撃となると、混雑の極みだろう。人混みを嫌う息子が、それでも行くというのだから、よほど楽しみにしていたのだろう。
車の中で、息子が言った。「服ができたよ。もう完璧なやつ。」と得意満面だ。
「ただ、あと1センチ裾を伸ばすか迷ってるんだけど。」と身振り手振りを加えて、「どこかを手直しすると、違うところが狂ってくる。そこを手直しすると、違うところが狂ってきて、なかなかうまくいかなんだけど、なんか完璧なものが出来た。後は裾を1㎝伸ばそうかどうしようか迷ってる。」
僕には服のことは分からない。だから正直に言った。
「悩むくらいなら、やってみたら? その半分をとって0.5センチでもいいし。」
根拠はなくて、悩むぐらいならやってみてから考えればいいし、やってみて失敗したと思っても、それは失敗のデーターがとれるんだから、どっちにしたって成功への道だと思ったからだ。
失敗はいくらしてもいい。それは行動している証なんだから。
ホントにそう思う。
車内の会話
相変わらず、車の中ではいろんな話をした。ズボン作りにおけるパターンの構造がわかってきたこと・・・とか、音楽に興味を持ち出して、FLスタジオというソフトで打ち込みをしている・・・とか、日本はとても良い国で、なんといっても食べ物が旨い・・・とか、日本製のAIロボットが1600万円という高値でそんなもの誰も使わない・・・とか。
時事ネタも含めて、推論を交えて自分の意見を互いに話してみる。息子の考え方が見えて、それに反論してみると、また違った反応を返してくる。「そんな考え方もあるのか」っと僕は言ったり、「確かに」と息子が納得したりもする。自分の意見を押し付けない距離感で言葉を交わす。
だから息子と話すのは楽しいし、話が尽きない。わからない事も聞いているだけで楽しかった。そうこうしているうちに、神戸ハーバーランドに着き、神戸のツツミ状の独特なタワーが見えてきた。
最終日の行列
神戸市立博物館にはすでに多くの人が集まっていた。みんな、ラストの滑り込みだ。
神戸市立博物館のなかに入ると、人、人、人で、高校生以下が無料なのもあり、子どもを連れて来ている人も多かったし、カップルもいるし、年配の女性のグループとか、様々な人が来ていた。
白いジャンパーを着こんだ小学校ぐらいの女の子が、ママを見上げていたが、子どもは背が低いから、この人だかりのなかで、どう絵を観るのだろうとか、自分の子どもでもないのに、そんな事を思った。
僕たちはチケットを購入し、行列の一部になった。
自由行動という距離
中に入ると、息子とはいつもの自由行動になる。一緒に並んで観るというより、互いの感性を縛らない距離感を大切にした。
40代ぐらいのカップルが、僕の横で「ほら。黒じゃないよ。深い緑なんだよ。」と男性が女性に説明していた。ゴッホの絵は全体的に暗い。目を凝らして細部が見えてくるぐらい。暗さの説明をしている男性が、僕の横に来たと思ったら次の絵へと意識を向けてどこかへ消えていった。
確かに緑だけど、そんな情報は僕にはノイズになった。ただ絵を眺めて身体で感じる何かを大切にしたかったから、余白を作っておきたかった。人の放つ情報で余白を汚されたくなかった。
僕は乱れた感性を整えて、もう一度その絵を観た。
が、緑が頭から離れなかった。

息子は自由に感性を働かせて、フラフラと歩いて回っていた。何度かすれ違う事もあったけど、互いに声をかけないでいた。
ゴッホは農民を愛したそうだ。絵の横に添えられている解説に書いてあった。だから農民をたくさん描いたのだけど、そのどれもが疲れ果てた顔をしていた。そしてどこを見ているのか?目の前で起こる事に、意味づけせず、物語も語らせず、ただただそこにいるような。
そんな農民の顔だけがリアルな質感をまとっている。

何度かすれ違い、ふと同じ絵を観ていた時に息子は言った。「この質感がいいね。」
油絵を重ねて塗って、筆を動かした跡が、線となり細かく凸凹感がでていた。細く立体になった筆の毛と毛の間をすり抜けた油絵具が、まるで木の繊維そのものに見えた。
「会場の薄暗い照明を反射するんだよね。それが本当の鳥の巣みたいに見えてくる。」
会場はスポット証明で、うっすらと絵に光があたっている。見る角度によって、その光が油絵の具に反射している。その質感も含めて作品としてみているようだった。

僕は「なるほどなぁ。そんなとこも観てるだな。それに、鳥の巣を描こうなんて、どうやったらそういう発想なんだろうな。」と言った。
息子は鳥の巣をじっと感じていた。
ゴッホについて
神戸市立博物館を後にして、そこから劇場型アクアリウムの「アトア」へぶらぶらと歩いていく。アトアは金魚ミュージアムで、変わった展示方法をしている小型の水族館だ。ずっと気になっていて一度訪れてみたかったんだけど、神戸に行くんなら、行きたいと思っていたところを全部まわってしまおうと考えて、今回の目的地のひとつにした。
「しかし、ゴッホって暗い絵に味があるなぁ。」と信号待ちしている時に息子と話していた。
「あの鳥の巣よかったなー」と息子が言った。
「あぁ、あの真っ黒な絵か。あれ油絵の具が重なっていたよな。」
「そうそう。それにさ、照明があたって光ってるようにみえる。あれがいいよね。大塚国際美術館じゃ、あの質感では観れなかったから」と息子が続ける。「ゴッホってさ、かなり承認欲求が強いよね。めっちゃ他人の評価を気にしていて、誰にも理解されないから、苦しんで孤独だったんだろうなと思うよ。」
僕はそこにはとても共感した。「そうだな。パリに行って他の画家と交流が始まっても、あまり馴染めなかったんだろうな。」
「唯一のゴーギャンが去ってゆく時に、気がおかしくなって耳を切ってるでしょ。そんなことある?」と息子が言うのを聞いて、僕は離婚した当時の自分を想い出して、なんとなくゴッホに共感をもった。
そして僕はしみじみと言った。「たぶんさ、あの狂ったとこまで精神的に追い詰められたから、あの絵が描けたんだと思うんだよね。」
とことん底辺まで落ちた時にしか見えない景色がある。そこでしか味わえないものもあって、そこから自分の殻を破れる人もいるし、そのままふてくされて這い上がれない者もいる。
それに承認欲求にまみれて、名誉や金を追い求めていたゴッホの絵は迷走している。明るい絵になったり、空を点々と描いていたりと、色彩もキレイに描こうとした作品もあったりする。これは明らかに他の画家に影響を受けている。
息子は僕に向き話を続ける。「パリを去ってさ、フランスのアルルに住んでから、評価されるのを諦めた感があるよね。」
僕は冷たい風を顔面に受けながら、生え際ハゲが目立ってるだろうなぁと思いながらも、息子の話しに共感した。「そうだな。もう理解されなくても描くっていう開き直りが強さなんだろうな。」
「確かに」と息子は言った。
信号が青に変わり僕たちは再び歩き始めた。
想像しなかった風景
まさか息子が芸術肌になるとは思っていなかった。そして、息子と美術館巡りをしているとも思ってはいなかった。2019年に独りぼっちになり、家族とは今生の別れだと覚悟したが、人生ってわからないものだなと思った。
6年前の自分には、まったく想像できなかった風景だ。
そして、最終日の、混雑した会場を後にして、息子とゴッホについて話している。
それだけで、もう十分だった。
