変化は、いつも静かに始まる

変わるというのは、
「変わった」と言われることではない。

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変化は、いつも静かに始まる

息子がふらりと僕の仕事場に入ってきて、
「メシ行かへん?」と誘ってきた。

岩盤浴へ行こうと思っていたけれど、
まぁ折角誘ってくれたんだと思い誘いに乗る事にしたが・・・。

岩盤浴にも行きたかったので
息子のいうラーメン「来来亭」は少し遠すぎる。

近くのうどん屋は定休日で、
結局、焼肉屋「とっちゃん」になった。

たいした会話はなかった。
ただ、焼ける音と煙の向こうで、
息子が知らぬ間にいろいろ経験しているんだと感じた。

話の流れで、高校時代の友人と疎遠になった理由を聞いた。
息子の友達が親に「留学したいって言ったら、“就職しなさい”って言われたらしい」
そう話す息子は塩タンを焼いている。

息子の友達が「留学したい」と思った時に、すぐに「就職しろ」と言われた背景には、親世代の「正解」がまだ昔のまま止まっている現実があるんだろうと思った。

  • 高度経済成長期
  • バブル
  • 年功序列
  • 終身雇用…。

団塊Jrの世代は、「いい大学に入って、いい会社に就職すれば、人生はなんとかなる」という時代を生きてきた世代だ。

だけど、今はその前提が根底から崩れている。
留学が選択肢に入っていない背景は、時代に追いついていない親世代の古い価値観がある。

勉強不足だな……と苦笑いした。
でも同時に、胸の奥にひとつの問いが浮かんだ。

——人は、どうすれば変われるのか?


嫉妬のかげで、人は立ち止まる

息子の友人は、きっと悔しかったのだろう。

他人の選択が、自分の停滞を照らしてしまうとき、
人はそっと距離を置くものだ。

息子はニューヨークに行くという選択をした。
英語を話し、考え方も話す内容も飛びぬけて面白い。

比べて自分はどうだ?行きたくもない大学に行き、親の言う通りに就職することになる。
未だこの大阪からも抜け出せず、楽しい事といったら飲み会ぐらいだが何かが違う。

高校時代にはリーダー格だった彼が、息子を下に見ていたのだろうが
今やずっと自分より先に行かれている。

だから彼は息子を遊びに誘わず、自然に疎遠になってしまったというわけだ。

これは息子に対する嫉妬なのだろう。

嫉妬とは、他者を拒む感情ではなく、
「自分もそうなりたかった」という祈りの裏返し。

その祈りに気づけたとき、
人はまた一歩、前に進めるのだと思う。

気づけたらの話だが・・・


正しさの終わりと、新しい時代

かつての「正解」は、もう続かない。
会社が守ってくれる時代は終わり、
これからは、自分を守る力が必要になる。

英語を学ぶことよりも、
問いを立て、考え、行動する力。

息子は日々疑問を持ち、情報を仕入れ、それを組み合わせながら行動に変えている。
だからこそ、留学が「逃避」ではなく「成長への投資」になると僕は考えた。

英語が話せるだけでは意味がなくて、情報をどう選び、組み合わせ、問いを立てて、自分の行動に落とし込むか。
それがこれからの時代に求められる力であり、AI時代を生きる人間に残された「人間らしい力」だと思う。

息子がその姿を見せてくれるたびに、
僕は、過去の自分を静かに見つめ直している。

かつて僕は息子のように熱く生きた事があったろうか・・・


目的のない留学は、ただの逃避になる

誰かと比べて動くとき、人は自分を見失う。

「行きたい」の前に「なぜ行きたいのか」がなければ、
どんな旅も、風景のままで終わってしまう。

友達が「留学したい」と思ったのは息子をみての素直な衝動だったかもしれないが
でも、それを親に伝えるときに、「なぜ今、留学なのか」「その後どうするのか」を言語化できなかった。

その背景には、そもそも「留学=かっこいい」とか「楽しそう」ぐらいのイメージしかなく、具体的な目的や未来像がなかった可能性がある。すると、親にとっては「遊びに行くだけでしょ」「どうせすぐ帰ってくる」と否定的に映ってしまう。

留学に行く前の息子には、ちゃんとその理由があった。

自分が本当にやりたい事を見つけてくるというものだった。

それがわかるだけで、もう十分だと思った。


昔の僕と、いまの僕

話を戻そう。

——人は、どうすれば変われるのか?

僕の経験から言って、安定している時、人は変わろうとはしない。
危機感がなければ、変化は「面倒なもの」にしか映らないからだ。

しかし、足元が崩れた時──
今までの常識が通用しなくなった時──
人は初めて「何かを変えないといけない」と本気で思う。

六年前、離婚を経験した。
世界が崩れるような日々の中で、
ただ「変わらなければ」と思っていた。

ただどう変わればいいかわからなかった。
だから無志向に知識を求めた。

本を読み、人の話を聞き、
自分の中の古い声を、少しずつ手放していった。

その時間の中で、僕は知った。

人は、新たな知識と学びでしか変われないと思っていたけれど、
本当は、自分をほどくことでしか変われない。

凝り固まった考えを捨てる事からすべては始まってゆく。


息子の挑戦を見つめながら

息子は失敗を重ねながら、
それをちゃんと糧にしてきた。

荒野行動というゲームでお金を生み出した話や、騙された経験を含め、
「成功も失敗も学びに変えている」と見抜けた視点は、
親の離婚という経験を、彼なりに引き受けて、
前に進む力に変えている──と感じたからだった。

その姿に、娘や息子に対する申し訳ない気持ちが少し軽くなった。
息子も娘もしっかり生きていると思えたからだ。

だからといって、僕の罪が許されるわけではない。
それでも、あの頃よりは少しだけ、静かに息ができるようになった。


地雷のあとに、花が咲くように

昔、妻によく言われた。
「また地雷を踏むのか?」と。

その言葉を思い出すたびに、
今も胸の奥が少し痛む。

当時の僕は、彼女の言いたいことを理解できなかった。
ただ避けることが“正解”だと思っていた。

当時、時々LINEに短い文とリンクが届いた。
どこかのサイトの記事だった。

たぶん、変わるためのヒントだったのだと思う。
けれどその頃の僕は、
その優しさの奥にある痛みに気づけなかった。

今なら、少しだけわかる。

僕の言動が彼女の心の痛みに触れたとき、
彼女はそう言って、自分を守ろうとしていたのだろう。

地雷とは、まだ癒えていない場所を知らせてくれるサインなのだと思う。

その場所を避けるよりも、
やさしく見つめ直し、共に痛みを知り、癒えるように寄り添うことだった。

あのときの彼女の言葉は、
そのための灯だったのかもしれない。


風のあとに、残るもの

変わるというのは、
「変わった」と言われることではない。

同じ場面に立ったとき、
もう踏まない歩き方を選べるようになること。

僕はまだ途中にいる。

けれど、風のあとに残る静けさの中で、
少しずつ、自分の足跡を変えていける気がしている。

きっと彼女も、
どこかで静かに、その風を感じてくれている気がする。

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この記事を書いた人

福祉事業の経営をしてます。①小規模多機能のケアマネ②現場の介助③厨房で料理作り④体操教室など地域ボランティアをしています。
「やってみる」を軸に人生の幅を広げます。ウインドサーフィン・登山・カメラ・バイクはSV650・競馬・FX・株式投資・投資信託などなど。体験を記事にしています。

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