アルファードV

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アルファードV

今では骨董品となっているアルファードVは、僕にとっては想い出の車だった。

映画スタートレック・ジェネレーションズのラストで、エンタープライズDは惑星ベリディアン3号星に墜落する。最新鋭だったその船は、そこで役目を終えた。

そして去年Amazonプライムで放送していた、スタートレック・ピカードで、機関士だったジョディー・ラフォージュが密かに修復して、ラストミッションに旧式艦として参戦した。

エンタープライズは、古い船であるけども、時代遅れではないというメッセージで、そこには艦長のピカードをはじめ、ライカー副長や、データー少佐などの、今では引退したクルーの経験と歴史がある。だから最後に活躍した。

僕にとっても、アルファードVは、このエンタープライズDと同じように、20年以上の前の車ではあるけども、家族との想い出が詰まった、大切な車だった。

「車検で検査したんですが、云い難い話なんですけど、車検代が50万ほどかかりままして」とトヨタの担当者が僕に電話で言った。理由はオイル漏れや、水もれが多発していて、思った以上に重症ということだった。

「そうか・・・。もう20年以上も乗ってるからかな」と答えたものの、僕にとって車検の値段よりも、積み重なった歴史そのものに価値がのったアルファードVだったので、なんだかぽっかりと心に空洞ができたようだった。

「この車検を乗り切っても、また多くの故障が出てくると思いますよ。」と僕の気持ちも察することなく、ディーラーは事実に基づく今後の見通しを話し始めた。

僕は黙って聞いていた。

「残念ですけど、もう寿命ですね。」と冷たい事実だけを言い放ち、彼は乗り換えの車を提示しはじめた。

エンタープライズD

僕には、彼の声はすでに聞こえなくなっていた。記憶の片隅に残像のように残っていた想い出が蘇ってきていた。このアルファードVを買うキッカケになったのは、別れた妻と話していた時の事だった。

「車を買おうと思うんだけど」と僕は運転しながら言った。すると「じゃぁアルファードにしなよ。」と、前のテールランプに赤く染まった顔で妻は僕に言った。

「アルファード?」

僕は車に詳しくはなかったので、妻の言ったその車種だけが頭の片隅に残った。伊勢ポルトヨーロッパで遊び疲れた娘は、後部座席で布団にくるまって寝てて、外はすっかり暗くなっていた。

妻の一言で決まったようなもので、ディーラーに「アルファードっていう車を買いたいんだけど」と事務所で相談すると、「結構なお値段しますよ。」と、小太りなディーラーは話し続けた。

当時の値段で450万ほどだったと記憶しているが、そこに障がい者用の椅子もオプションでつけて、キャッシュで即決したのだった。

これがアルファードVとの出会いになり、そして家族との想い出が詰まった、僕にとってのエンタープライズDになってゆく。


祖母の墓参り

障がい者用のオプションとは、左の椅子がボタンひとつで、地面近くまでせり出す福祉仕様になっていた。このチョイスは、僕のおばあちゃんが腸閉塞の手術を終えていたのが大きかった。

長男を失ってからは、めっきり弱って背中も丸くなり、小さくなっていて、おばあちゃんの事も考えての福祉仕様だった。

納車された時に、「にーちゃんの墓参りに行こうか」と誘い、そして椅子をせり出して、「まぁ、なにこれ」と驚いてはいたが、「さぁ、乗った乗った。」と、目を丸くするおばあちゃんに僕は笑って言った。

うぃーんと動いてせり上がってゆくおばあちゃんは、少し怖がっていたが、小さな身体がアルファードに乗せられてゆく様を、面白く眺めていた。

天気の良い日曜日だった。空は青く、雲が穏やかに流れた春先だった。お墓の情景は、すっかり桜が舞っていた。僕は36歳で他界してしまった長男に結婚することを報告して、線香の煙がまっすぐに立ち上がってゆくのを眺めていた。

おばあちゃんが、アルファードに乗ったのは、結局この1度きりだった。


娘の高校の試験の日

娘は、妻も僕も目を見張るほどの天才だった。集中力は半端なく、記憶力も理解力も中学でのクラスで群を抜いていた。首席トップクラスの成績で、他の親からうらやましがられる事が多かった。

すっかり僕は鼻高々になり、自慢の娘だった。実際には、身体が弱いのもあり、小学生の頃にはハラハラさせられたが、健康に生きていてくれれば、親とすれば十分に幸せで、求めるものはなかったが、それでもこの能力値を目にしたときには、健康以上の親の期待を娘に乗せたものだった。

関西トップクラスの高校に進学して、高校2年生の冬に、僕は娘の試験の日にアルファードで高速を飛ばしていた。試験を受けないと、留年のリスクもあった。

「今日の試験はとりあえず受けとけ。点数だけ取っておけ。わかったか!」と僕は声を荒げて、後ろでうずくまっている娘に言った。娘は返事をしなかった。

湾岸高速を飛ばして、娘の高校まで行き、そして急いで帰れば、仕事に間に合う事が出来ると計算していた。幸い渋滞もなく、湾岸高速から環状線に入り、無事に高校まではつくことが出来た。登校中の学生が、車の横を過ぎてゆく。

「着いたぞ」と声を掛けるが、娘は動かなかった。

「おい。ちょっと。」と声を大きくして言ったが、娘は背を丸めて全く動こうとしなかった。僕は娘の将来を思って必死だったが、そんな想いよりも娘は違うものを見ていたのだろう。ただ当時の僕には娘の気持ちを推し量る力はなかった。

結局、娘は車から降りず、僕は妻に電話を掛けて、そのまま帰る事になった。

帰りの高速を飛ばして、僕はイライラしていた。

今の僕だったら、娘にどう接していただろう?当時とは違った接し方や、娘の想いに寄り添おうとする試みはあるかもしれない。少なくとも僕の想いを押し付ける事はせず、娘らしさを受け入れる事は出来るだろう。

あの時の後悔が胸に痛む。

娘の作った小物が、アルファードのバックミラーで揺れている。これは僕にとって大切な宝物のひとつになっている。


長島スパーランドの花火

名古屋と大阪を何度往復しただろうか。

名古屋、大阪を結ぶ高速は2つある。ひとつは名神高速だ。これは京都経由で3時間の道のり。もうひとつは名阪国道。これは奈良経由で2時間30分の道のり。僕は名阪国道を選んでいた。

時間もあるが、なによりもアップダウンがあり、運転して退屈しないのが名阪国道だった。そして伊勢湾岸道からナガシマスパーランドを過ぎて、名古屋市内に入るというのが僕の選んだルートだった。

ある時、ナガシマスパーランドのあるサービスエリアで花火の打ち上げがあった。名古屋からの帰りにサービスエリアに寄り道をして、家族で花火をみた。

車から降りて、芝生の上でゴザを敷いて華々しく打ち上げられる花火を、妻と娘と息子と眺めた。

アルファードVは、家族の想い出そのものだ。思い出せば、とても幸せな時間だった。


息子の初運転

「あのさ、洞窟に温泉があるんだよ。次の日曜日に行こうと思うんだけど、どうする?」と僕は息子に言った。バブル時代に、山を削って作ったというホテル浦島が、和歌山勝浦にあった。

「ありかも」と息子は答えたが、僕には温泉よりも息子に伝えておかなきゃという想いがあった。本題は温泉でなく、運転の指導にあった。

当時、息子は普通免許を取ったばかりだった。ただバイクの時もそうだったが、自転車なみの車間距離しかあけずに、息子は悪気があったわけでもなく、車との車間距離を詰めすぎたために、バイクで横転事故をした経験があった。

だから僕は、助手席に乗り、息子の運転を確かめておく必要があった。「事故を起こす前に、危ないところはしっかりと治しておかないと」っと、親ならば誰でも思う事だ。

思ったとおりというか、予想は的中したというか、「だから、なんでブレーキ遅いの?」とか、「だから、なんでスピード落とさず曲がるんだよ!」とか、助手席に乗った僕は、ゲロ吐きそうなぐらい気分が滅入っていた。

「カーブの手前で少しづつブレーキを踏んで、十分にスピード落としたところから、アウトからハンドル切って、インに目掛けてカーブを抜けてゆけ。抜けたと当時にアクセルを踏んで、アウトへ出てけ。」と言葉で説明したところで、息子は急ブレーキで、ハンドル操作はカクカクしていた。

言葉で理解する息子ではないのだけど、当時はまだ僕は息子の特性をつかみ切れていなかった。

和歌山から白浜を抜けて、勝浦を目指す海沿いの国道24号線を走るアルファードVは、息子の運転に挙動を預けて震度5ぐらいはあった。僕は助手席で、ゲロが喉元まで上がってきていて、限界が近かった。

「左舷、弾幕薄いぞ、なにやってんの!」と、ホワイトベースが攻撃された時の、ブライト艦長みたいに僕は叫んでいたが、息子は「バイクの運転しか経験ねぇから」と、マジでバイクのような急発進、急ブレーキで、アルファードの車内は地獄そのものだった。

「もしママが後部座席に乗ってたら白目剥いてんぞ!」と叫んだ。

息子は笑っていたが、真面目な話、妻は車酔いが激しかった。三半規管が弱いのだろう。ちょっとした山道でぐったりなっていたので、僕は車内が揺れないように走ったが、それでもぐったりなっていた。梅田ヨドバシカメラの立体駐車場まで登る螺旋運転ですら、「ダメだ。酔った。」とか目を回していたぐらいだった。今の息子の運転には、数分ももたないだろう。

「ダメだ。お前は運転の才能ない。」と言った時、目の前にサイレンの鳴らしていない救急車が走っていた。片側1車線の24号線は、あの救急車の後ろを走るしかなかった。で、僕は息子に言った。

「あの救急車を参考にしろ。テールランプを見ながら、どこでブレーキを踏んでいるのか?どういったラインどりをしてカーブを曲がっているのか?観察してマネしろ!」っと。

すると、車内の揺れは、ひときわマシになり、カーブを数こなすと、ブレーキの加減も緩やかになっていった。30分も走れば劇的に快適な空間になり、一時は窓を開けて吐くつもりでいた嗚咽も静まってきた。

「なんとなくわかってきたよ」と息子は、いつものヘラヘラ顔で言った。

「ずっと言葉で説明してもわからんのに、感覚でつかむんだな。」と、僕はこの時に、初めて、息子が感覚でモノを見ているだという片鱗を知る事になった。

この時から、息子の「感覚」を意識するようになる。僕は言葉で理解するほうなので、「自分に出来る事は、他人も出来る。」っと、主観で息子を見てしまっていたが、ここで僕は言葉と感覚を分離することになる。

息子がイメージしやすいように、言葉ではなく感覚で伝えるにはどうしたらいいのか?

試行錯誤し始めたのが、まさにこの瞬間だった。


物語の始まりと終わり

「アルファードがいいんじゃない?」と言った妻の言葉から始まった物語。

アルファードVには、20年以上の物語が刻まれている。祖母の想い出だったり、名古屋と大阪を繋いできた想い出だったり、子どもが成長する想い出だったり、家族の記憶が刻まれている。

結婚してからは、日ごろは妻が運転していた。家の前で擦って保険屋に電話したとき、「なんか、保険屋さんが査定しにくるんだって。」と妻が言うので、「なんで?」と聞くと、「本当にぶつけた傷か調べるとか言ってた。」と言った。

ひとつの保険屋で、社用車全部をとりまとめていたので、保険屋にとっては、複数の台数を加入してくれているお得意様のハズなのに、保険金を出し惜しみしているようだった。

妻だけが立ち会う予定の査定日に、急遽僕は立ち会った。

「ちょっと事務所に入って話そうか」と言ったら、担当者はなぜだか汗をかき始めて、態度をガラリと変えた。たぶん、この時に、個人契約と法人契約が繋がったのだろう。

「大丈夫です。この傷も、この傷も、この傷も、こうやってぶつかって、このようにぶつかったわけだから、保険で対応できますl」と調子の良い事を言った。

担当者の慌てふためく表情が、それを物語っていた。有事の時に使えない保険だったら、僕はすべての社用車の解約をぶつけるつもりでいたが、妻と共に人生を戦ってきたのも、このアルファードVは見てきている。

それが、この車検で、役目を終えようとしている。

廃車の提案を受けて、いろいろ考え巡らし、離婚7年目にして、時間と共に物語が閉じていっているのだと気づかされる事になった。


最後のお別れに

アルファードVの廃車手続きを始めている。

次の車を買う気にはなれず、提案を受けたトヨタ ランドクルーザー250も断った。

僕にとって車はただの乗り物じゃない。家族の記憶を運んでいるエンタープライズDなのだ。役割を終えても、物語を紡いでいる。20年以上の家族の記憶が刻まれた物語なのだ。

だから今は乗り換えする気も起こらず、たぶん不便を感じるかもしれないが、一旦は車のない生活も良いだろうと思ったりもする。

まだまだ僕の中には、未整理の物語があるようだ。だから割り切りが出来ないのだろう。少し寂しいが、最後に一度、アルファードVとドライブにでも出かけようと思う。

そこで物語の終わりを見届けれられたらと思う。

Caravan

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この記事を書いた人

福祉事業の経営をしてます。①小規模多機能のケアマネ②現場の介助③厨房で料理作り④体操教室など地域ボランティアをしています。
「やってみる」を軸に人生の幅を広げます。ウインドサーフィン・登山・カメラ・バイクはSV650・競馬・FX・株式投資・投資信託などなど。体験を記事にしています。

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