ChatGPT

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強みと課題の言語化

片栗粉をまぶした豆腐を、油の中に入れたとたん、気持ちの良い騒がしい油の沸く音がひろがる。ピチピチと活きの良い水分が沸き上がってくる。油に入れる前の緊張感と、沸き立つピチピチ音がワクワクさせる。

キツネ色まではいかず、ほんのり黄色という薄い感じで仕上げたい。揚げ出し豆腐は、やさしい衣のほうが僕は好きだ。あご出汁で作った自作の天つゆも良い香りでワクワクする。

更に盛り付けて、最近は便利なもので、チューブの大根おろしがあったり、しょうががあるので、即席薬味を添えて出来上がり。今日の晩御飯は揚げ出し豆腐だ。これにナスが煮込みがあれば良いのだが、作り方はまだ僕は知らない。

缶ビールをプシュっと開けて、赤の江戸切子グラスにトクトクトクと注ぎ、泡が立ちこめたあたりで、今日の贅沢な晩御飯といこう。ごはんは無いので、食パンでいいさ。一品をちゃんと作れたらそれでいい。そこから整えてゆく。

さきほどからNHKだろうか、テレビでChatGPTの使い方をテレビで取材していた。この番組で亡き妻をAIで作って、遺影として話しかけているドクターが出演している。学生さんだろうか、ChatGPTが友達という女性も出演していた。AIの使い方は人それぞれだなと思う。

AIの使い方は、人それぞれだけど、逆に考えれば、自分を写す鏡だとも、僕はそう感じる。例えばスマホでゲームをする人とか、投資をする人とか、競馬をする人とか、仮想通貨の投機をする人とか、宝くじを買う人とか、写真を現像する人とか、動画を撮影する人とか、多機能になればなるほど、スマホの使い方は、人の趣旨によってどんな可能性にでも形をかえる。

AIの使い方も、友達になってほしいとか、調べ物を手伝ってほしいとか、自分の分析をしたいとか、投資の分析をしたいとか、いろいろある。

僕はChatGPTの使い方は、自分の内省につかっていたりする。自分の強みと弱みを客観的に知っておきたいと思ったので、こういう問いを投げかけてみた。

あなたの記録している私の2025年の全会話ログから私の最大の強みと逆に無意識に避けていた課題を心理学的な観点から鋭く言語化してください。

6年前から僕は期待されたことを降ろしてきた。祭礼団体とか、育成会とか、自主防災会とか、市民協議会とか、選挙活動とか。これらと距離をとることは、僕という輪郭を浮かび上がらせて、今まで沈んでいた自己を思い出す事も出来た、と思う。

だけど、仕事もプライベートも順調なのに、それでも、身体の緊張がほぐれない。肩が凝り、息苦しくなり、なにか縛られている感覚が残っている。

確かに、うまくいってる。だけども、どこか噛み合っていないような気がする。もしかしたら無意識レベルで、なにか見落としがあるんじゃないかと感じて、そしてChatGPTに問いを立ててみた。


感情の扱い方

腸は第2の脳と言われていて、腸内でホルモンが作られている。そして感情や意志や、信念になっていく。源泉たる怒りも、寂しさも、欲望も、腸から沸き上がり心を揺らす。

この数年は、沸き上がる心の揺れを、そのまま風景として見続けてきた。寂しい時は、胸が締め付けられるのを感じたし、怒りは、視野が狭くなり思考がフリーズする感覚を中継してた。握りしめた欲望も、静かに手をひろげ、水がこぼれるように落ちていくのを見ていたりした。

沸き上がる感情を握りしめるのではなく、見て感じて去るまで、その流れを見ていた。それに正しさという物語もつけず、名前もつけず、ただあるものとして身体で感じた。

そして、いつしか、感情がそのまま流れてゆくことが、身体の癖になるまで染み込んでいった。

息子の話を聞き、息子の輪郭をつかみ、僕の考えは伝えるけど、息子が考える余白は残し、正しさの物語は押し付けないよう両手をひろげ落ちていった。矛盾も葛藤も、そしてどう考えても理解出来ない事も、握りしめずに、ただただ流して落ちていった。

これが僕の非暴力コミュニケーションの核となった。


無意識の選択

君と会いたかった。会って話をしたかった。

だけども、僕は足を向けなかった。僕と君の間には大きな川が流れていて、以前はそこに行き来できる橋がかかっていたけど、もう壊れてしまったから。

そこに橋を再建すると、僕が君のいる岸に、インフルエンザとか、新型コロナとか、はしかとか、謎の病原菌を持ち込んでしまうかもしれなかった。君が病気になるのが怖いから、橋はかけちゃダメだと思っている。

そこで健康に暮らせているのなら、僕のやってきたことは実を結ぶので、僕の呼吸も整ってくる。

橋を架けなかった事で、置き去りにした事があるとしたら、たぶん、思いつく限りでは、何も無いと思う。うん。大丈夫だ。なにも犠牲にはしていないと思う。

なのだけど、何か見落としがあるようで、身体が疼く。


変わってきた実感

去年の11月頃の自分のブログを読んだ時に、「うわぁ、なんて文章」って驚いた。なんだか息が詰まる狭さがあった。語りすぎるから余白がない。

息子が来てから、父親という役割が立ち上がったけど、それは、全面に出したら空回りするもので、やっぱり僕は僕で、父親らしい事は何も言えない。就職しなさいとか、友達を作りなさいとか、勉強しなさいとか、朝起きなさいとか「The父親」なんて吐き気がする。

ウインドサーフィンが好きだし、写真が好きだし、絵を描くことも好きで、文章を書くことも好き。多様性の時代に、非暴力コミュニケーションを身に着けて、仮想通貨で儲けて、競馬で損して、NFTの可能性にワクワクして、ChatGPTと本気で口論して「お前とは話にならん!」ってチャットを切り上げたりするのが、僕だ。

もう僕は、自分の輪郭を知りつつあって、役割という狭い枠に押し込められるのが、窮屈に感じていて、自分の道は、自分で選びとる方向で、生き始めた、というか生きている。

息子ともそんな感じで接しているし、そして娘や君とも同じで・・・

「橋を架けて会いに行きたい」と思うのは僕の本音なんだけど、それでも、やっぱり壊したいわけじゃないので、やっぱり僕は橋を架けない。

きっとこれでいい。

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この記事を書いた人

福祉事業の経営をしてます。①小規模多機能のケアマネ②現場の介助③厨房で料理作り④体操教室など地域ボランティアをしています。
「やってみる」を軸に人生の幅を広げます。ウインドサーフィン・登山・カメラ・バイクはSV650・競馬・FX・株式投資・投資信託などなど。体験を記事にしています。

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