7年目のお正月

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新年あけましておめでとうございます?

あけましておめでとうございます。

何がおめでとうなんだろう?LINE の通知がだいたい50件以上来てて、そのほとんどはもう全てと言っていいけど、「あけましておめでとうございます」。

既読にしてしまうと、返信しなくちゃいけないので、まだ見ていない感じで、そっとスマホを置く。新年早々にスマホの振動に意識を奪われるので、時間は奪われたくない。

一体何がおめでたいんだろう?

正月というだけで、無理に意味付けしなくてもいいんだけど。いったん始まってしまった僕の思考の糸はからまりほつれながらも終わりが見えてこない。思考の波に呑まれてはいるけど、だけど確かに足のつく場所もある。

それは、新年という事実に、
物語を付け加えて

人は期待しだすという事だ。

ただ日付が一日進んだだけなのに、
そこに 心機一転・再出発・区切り みたいな
物語を一斉にまとわせる。


記憶が物語を語りだす

今、僕は正月をだらだらと朝起きて、昨日の残った鍋を食べて、そしてデイルームに行き仕事をしてたりする。

ここに物語なんてない。

入居者のモーニングケアをして、独居の利用者さんに朝ごはんを作っている。昨夜は年越し蕎麦を作った。めちゃくちゃ感謝されたけど、実際のところありがたいだろうな。

正月に朝起きて窓の外を見上げて曇っているなぁと彼女は言った。
正月の天気はくもりだった。

バブルを経験して大金持ちになって、幸せな未来が待っていると思えば、家族はバラバラで今は独りぼっち。ひとりで過ごす正月が寂しいとは言わない。僕もひとりだ。だけど、これに「あけましておめでとう」という物語を乗せてしまうと、途端にこの状況が悲しく見える。

正月を、かつて彼女も家族と共に祝っていただろう日があるだろう。
その記憶が物語を連れてくる。

事実は、年が変わっただけなのに。


身体が求めること

そうだ。年が変わった以外に、もう一つ僕は変わったことがあった。

それは僕の中で、いや人というのは、無意識のうちに反応することがある。これに気がついたということかな。

例えば、僕は決まった美容院に行く。以前行ってたところは地元だったから近くて便利だったし、何の不満もなかったわけだけど、カラーリングをする時に思ったような色にならなかった。というか、してくれなかったという美容師の対応の適当さが見えた。

結局、今は美容院を変えているのだけど、僕からすれば、新しく開拓するのはとても勇気のいることで、ある程度気心が知れて勝手がわかった美容院に行くほうがいい。それが僕の身体が求めている事で、無意識にこの感覚に従っている。

理屈じゃなくて体が求める。

  • 身体が先に求めて、
  • そこに意味づけして、
  • 行動に移すわけで、

結論として、身体の影響はとても強い。


「安心」が刻まれている

僕は、あの時の安心感を覚えている。

君に僕の名前を呼ばれる安心感を覚えている。
君が僕の左側を歩く安心感を覚えている。

それは体に染みついている僕の記憶。

映画館で「NO MORE 映画泥棒」という宣伝が流れる。その時の映画が始まるぞといった雰囲気って身体が覚えてたりする。ソワソワ感やワクワク感?人によってはドキドキなのかな。

同じように、君と過ごした記憶が体に染みついている。そして身体が先に反応して、そこに物語を連れてきて、関係性に意味づけをするものだから、期待が乗り途端にこの状況が悲しくなる。

正直に言えば、ちょっと途方に暮れた。
身体が記憶している事がなかなか抜けないというジレンマ。

回復に時間がかかるはずだよ。
今年で7年目に入ろうというのに、道半ばっていうんだから

身体の記憶はなかなか抜けない。


期待を乗せない自由

身体が覚えている感覚が、僕の心に波風を立てるので、君を思い出してしまうが、よくよく考えれば僕の中でいる君は、過去の君であり実体の持たない僕が作り出した君の影だったりする。

つまり僕は言いたいのは、身体の反応が、あの時の安心感を求め、君の影を作り出しては、物語を期待してしまう。

そして失望する。まったく身勝手なひとり相撲だ。

運転してて、考え事をしていて、いつのまにか目的地について、どの道をどう走ってきたのか後から思い出すことがある。それこそ走り慣れた道を無意識に走っているからであって、その道が今日通るべきはずの運命の道ではない。

無意識に選んだ結果であって、
それを運命化するのは期待しすぎなんだよ。

そこには何も物語はない。

この身体の反応をしっかり俯瞰で見ておかないと、僕は勝手に期待して物語を乗せて、未来も自由も縛り付けてしまうのだから、身体の反応は侮れない。


7年目のお正月に考えていたこと

この正月に、ぼーっと考えていて、なんとなくだけど、僕の身体の記憶に触れて、僕の中で起こっていることがなんとなく俯瞰でつかめてきた。

心と身体は共鳴しあう。

僕はあの頃の君との安心を求めて、今を生きていて、それは身体に染みついた記憶の再生で、しかも反復して繰り返していて、なんだか例えると、獅子落としみたいなもんで、コツンコツンと同じことを繰り返して、世界に反響しているだけの存在だったりするのかもしれない。

ここから抜け出すには、どうしたらいいんだろう。

少し逆らって新しい刺激も受け入れる?
歩き慣れた道に行き着くのではなく、少し寄り道をしてみる?少し脇道にそれてみる?

そのことを意識的にしておいた方がいいのかもしれないなと、なんとなく、なんとなく。

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あけましておめでとう。

年が変わっただけだね。

僕は仕事をしている。

そしてブログを書いている。

ただそれだけ。

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そこに物語も意味づけも必要ない。覚えといておくれよ「僕」

表裏一体

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この記事を書いた人

福祉事業の経営をしてます。①小規模多機能のケアマネ②現場の介助③厨房で料理作り④体操教室など地域ボランティアをしています。
「やってみる」を軸に人生の幅を広げます。ウインドサーフィン・登山・カメラ・バイクはSV650・競馬・FX・株式投資・投資信託などなど。体験を記事にしています。

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