雨の日曜日に心を整えていたけど
ドアを開けたら美術館にいた話
日曜の雨
土曜日の仕事終わり、スタッフは会社を後にした。誰もいなくなったデイルームの電気を消し、僕も後に続いた。肩の力が抜けてゆく。そして胸の中の緊張が解けてゆく。
◇
朝、布団の中でまどろんでいた。この僕の身体は安心しきって、重力に身を任せていた。朝に時計を見なくてすむ幸せがあるだろうか。時間に追いかけられないつかの間の休日だ。外は雨が降っていた。ベランダの屋根に雨が打ち付けていた。
しばらく雨のリズムを聞いていた。鳥たちもどこかで雨宿りだろうか、鳴き声は聞こえない。雨をBGMにして少しづつ目が覚めてきた。時計に目をやると7:00を差していた。
休日だというのに、毎日の習慣でこの時間に目が覚める。
のそりと起きて、ストーブをつける。蛇口をひねり勢い良く出てくる水を鍋で受けて、それをコンロにかける。部屋を湿度で潤そうとしたのだが、そういや今日は雨だ。その必要はなかったなと気がつくが、まぁいい。その湯でアールグレイを作ればいいじゃないかと可笑しくなる。
ノートパソコンの電源を入れてから、アールグレイのティーパックをやぶり、鼻腔に気持ち良い香りが心を和ませ、コップに入れた。
さて、ブログの執筆にかかろう。今から僕の時間だ。
雨の日に君と会話するのも悪くない。
温かいアールグレイが喉の奥を流れて、身体がゆっくりほぐれてゆく。
行動の始まりは気分で
ふと時計に目をやるといつの間にか10:00を差していた。
頭がボーっとしてきて集中力が途切れてきた。身体と脳が糖分を欲している。そういや朝ごはんがまだだった。マックに行こうとドアを向こう側へ。外は雨が降っていたが、思いのほか気持ちがよかった。
適度な湿度と雨のうるおいが空気に交じっていた。小雨は息をするたび心地よさをつれてきた。すると気持ちはブログを離れ、刺激の欲求に満たされてきた。
どこかに出かけようかな
気分を変えようと思った。そうだ今日は美術館に行こう。そして感性を刺激しよう。そも思ったらもう今日の目的地は決まった。気分は中ノ島美術館に向かっていた。今の展示はシュルレアリスム(超現実主義)だ。
シュルレアリスムってのは、夢や無意識の世界で、現実を越えたもうひとつのリアル。心理学者フロイトの影響を受けた芸術で、以前から見てみたいなと思ってはいた。
ちょうど今日は雨。静かに美術鑑賞と洒落こもうと、今日の目的が突如として表れて、足取りは軽くなった。
美術館への誘い
ふと思い出す。そういえば息子の顔を1週間見ていないなと。なんかこの楽しそうな日を、独り占めするのも申し訳ない気持ちになってきたので、息子にlineだけ入れてみた。
ライカー副長「夢と無意識を表現した芸術見に行くけど来る?」



「まじで」
ああ、この流れ来るなと思い、返答またず「駐車場で集合ね。いますぐ」と送信した。
駐車場で待っていると、バタンと扉を開けて乗り込んで来るなり「ダメだ。スランプ。作りたいイメージはあるんだけど、スキルが追いついてないわー」と頭をボリボリ掻いている。
服を知れば知るほど、沼にハマったらしい。次から次へと課題が浮かび上がってきているようだ。息子はすぐに自分の宇宙を空間美術として、服として表現できると踏んでいたんだろう。
なかなか自分の思い通りにならない事すら、楽しんでいるように見えたので、それはそれでいいかと僕は安心していった。
そうか、じゃぁタイミングバッチリだな。
気分転換といこう。


シュルレアリスム
シュルレアリスムで有名なのは、サルバドール・ダリ。この人の有名な絵がこれ。


溶けた時計が時間の流動性を意味しているらしく、現実の不確かさを表現しているんだと。確かに現実は不確かだ。時の流れと共に、君はいたりいなかったりする。僕の輪郭も失った時もあったり、ハッキリしたり。なにが確かなものかわからない。
確かなものなんてこの世には無い。
そう最近は感じるよ。
だから意味を見出そうとして問いただしたとしても窮屈なだけ。
今、そう感じるんだから、それに意味付けなんていらない。
世の中ってそんなもんだと、わからない事をそのまま余白で残す。
そのほうがとても自然なんだなぁと感じる。
シュルレアリスムに話を戻して
この芸術の基盤は、心理学者フロイトに影響を受けているというのが興味をそそる。
フロイトは、人の心には「無意識」という、意識では気づけない領域があると論説した学者。そして無意識には、欲望・衝動・記憶などが流れていて、夢はその流れからイメージや象徴を投影する。夢は「無意識への道」だと考えたわけだ。
この理論がシュルレアリスムの根底にある。だから夢や無意識の世界が、シュルレアリスムなのさ。面白いだろ。
深層心理っていう話がめっぽう大好物でね。
夢や無意識の世界がどう芸術として表現されているのか?
とても楽しみなんだ。
感性の揺れ


美術館という場はとても不思議なとこだ。
心が落ち着くというか、感性が温まり、感じる空間としてそこに在る。
最近は息子の影響で感じる事を意識しているからか
僕も無意識のうちに感性で情報を受け取っているんだなとわかった。
ただ君のように身体で感じる事は出来ないから
僕は感性を使うまで時間がかかる。
意識しないと俯瞰になれないんだよ。
絵を観ているだけでも、他の観覧者の気配が近づいてきて、
僕はふっとそちらのほうに気を向けてしまう。
それがノイズになってなかなか集中できなかった。
息子はいつものようにふわふわと歩きながら、
まるで夢遊病のように徘徊していた。
息子はいつもそうだ。
イメージを遊ばせているのか、感性を広げている時はいつもふわふわしている。
楽しんでいる息子を横目に、僕も大塚国際美術館で現代美術を鑑賞したときのように、作品の漂う質感やイメージや空間を感じようとした。言葉にしない感覚をまとわりつかせながら、言葉にするのを我慢して鑑賞した。
僕は言葉として理解しようという癖があるんだ。
だから感性で感じたものをすぐに言葉ですくい取ろうとする。
理論で把握しないとスッキリしないんだ。
だけど今日はなにも感じなかった。言葉にするまでもなく、僕の感性は沈黙していた。まわりの人が多いというのもあったけど、作品の前にガラスがあって、その反射が気になってしまう。
美術館は作品を鑑賞するのに、ガラス張りは不要だなとか、照明をもう少し暗くしたほうがとか、余計な考えが浮かんでは消える。
それに作品の前に座る人が、頭をうねって「うぉうぉ」と小さくつぶやいていたり、静かに目を閉じてマインドフルネスしていたりと、鑑賞の仕方とか感じ方?なのかな。とても変わった人がいたのも面白かった。ただノイズになったけどね。
あぁ、今日はダメだな
だから少し意識の向きを変えて、美術館と鑑賞する人々と作品で立体的に感じる事にした。そしてこの構図が美しいなと思って自分の作品を生み出す事にした。そしてキリトリ撮影したら、警備員に注意された。
その時の写真がこれ。
これが美しいなと思った僕のファインアート。
今日の成果はこれだけかなぁ。


息子は相変わらずふわふわと徘徊していて、すれ違ったと思ったら、座っていたり、斜めにひょろひょろしていたり、変わった動きをしていたよ。
感性ある人は、佇まいも独特なんだなと思った日曜日だった。
僕の感性は思ったよりも温度が上がらなかった。
でもそれがなにか、まだわからない。







