息子がふらりと現れて、
そのまわりに静かな風が漂っていた。
息子の世界に そっと歩幅を合わせてみるという話
仕事終わりに息子が仕事場にやってきて「飯行こうや」と声をかけられた。
息子は京都に彼女とプチ旅行していたのだけど
帰ってきていきなり「メシ行こう」と言われて
相変わらずのマシンガントークがさく裂している。
ちょっとまてまて、まだ仕事が残ってるから、終わったら声かけるから・・・
まぁ、それでもその何気ない感じがちょっと嬉しい。
息子の話し方について
息子の言葉には、
どこか感性のまま話しているようなところがある。
感じた事をそのまま手のひらに乗せるみたいにして
ぽんと差し出される感じ。
その形がすぐには見えればいいんだけど、なかなかわからない。
少し眺めていると、ゆっくりと輪郭が見えてくる。
階段を登るみたいな瞬間もあれば、
ぱっと景色がひらけることもあって、
そのたびに目を細めてみたり、「ん?」と首をかしげたり。
息子なんでわからないの?
とくるわけだ。だから僕は



そうカリカリするな(笑)
と茶化すわけだ。
わかるように言えよ・・・って感じなんだけど、
まぁなんとなく、それが心地よかったりもする。
どうしてふらりとやってくるのか
ある日、息子がぽつりと言っていた。
「話がちゃんと届く相手って、思ったより少ないんだよ」と。
深刻な意味じゃなく、
ただ、自分の中のものを言葉にするとき、
安心して置ける場所がほんの数カ所ある──
そんな感じなのかもしれない。
そのひとつに、たまたま僕が含まれているだけ。
僕の中にある 小さな揺れ
息子の話を聞いていると、
すぐには輪郭がつかめない。
でも、その奥に流れているものを
静かに見つめていると、
ゆっくりとピントがあっていく。
全部を理解しようとすると、
どこかで息がつまってしまう。
ただ近くにいれば、
なんとなく通じるものがあるような気もして、
それが意外と心地いい。
息子は、とても静かな場所で
なにかを育てているように見えるときがある。
急がなくてもいい時間の中で。
父として どんな場所でいたいのか
最近思うのは、
わからないところを無理に埋めようとしないほうが、
お互いに楽なのかもしれないということ。
・理解しきれない部分はそのままに
・届かないところには風を通して
・自分の限界も責めず
・息子の形に手を入れようとしない
そんな距離が、いまはちょうどいい。
息子にとって僕は、
“声を置いていける壁”のような存在に
なっているのかもしれない。
近すぎず、遠すぎず。
その微妙な温度の中で。
まるで壁打ちテニスみたいに
息子の感覚を言葉にして返す。
息子という風について
息子を見ていると、
特別とか優れているとか、
そういう言葉とは少し違う場所にいる気がする。
ただ、生まれつき、ちょっと変わった風の流れを持っているようで
ときどき深い話になったり、
合う相手が限られたりするのも、
その風の流れのせいなんだと思う。
誰が悪いわけでもないし、
どこが正しいわけでもない。
ただ、そういう風があるだけ。
そして 今
いつか息子が、自分の風に乗るときが来たら、
この静かな時間を
「準備のようなものだったのかもしれない」と
ふと感じる日が来るのかもしれない。
父としてできることは多くないけれど、
すこし離れて、
すこし近くで、
ただ見守っている。
…そんな場所にいるのが、今はしっくりきている。










